世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

カテゴリ:一橋大学対策 > 一橋大学2013

 2013年一橋の大問3は、19世紀末から20世紀初頭ごろの中国・朝鮮における政治状況を問う設問で、一橋では頻出のテーマだったかと思います。一部、高校世界史には出てこない知識を要求される設問でしたが、全体としては史料の読解によって解答を導くことができる設問ですので、大問2と同様に悪問とまでは言えないかと思います。(ただし、空欄bの補充だけは、採点時に幅を持たせないのだとすればかなり極悪な問題です。) 同年の大問2と合わせてみると、当時の一橋の設問が史料の読解と情報分析にかなり重点を置いていることが見て取れるかと思います。

 

【A】

(1、設問確認)

・空欄( a )~( d )に適語を入れよ

・革命派と立憲派の論争について説明せよ

 

(2、空欄補充)

a:興中会 / b:梁啓超 / c:北洋軍閥 / d:国民党

 

acdについては特に問題はありません。リード文の情報で十分に解答を導くことは可能です。問題なのは、空欄bです。こちらの方は、高校生の受験知識で確定することはほぼ不可能かと思います。おそらく、まともに考えて解答に近づけた受験生の多くが「康有為」と解答したのではないかと思います。個人的には、これは出題側の落ち度だと思いますので「康有為」でも正解で良いのではないかと思いますが、実際の採点がどうなっていたのかまでは分かりません。

 では、なぜ康有為ではなく梁啓超なのかと言いますと、変法運動時点での中心人物は康有為なのですが、戊戌の政変以降の言論活動については、康有為は目立った活動をしておりません。対して、梁啓超については『新民叢報』をはじめとするいくつかの雑誌を創刊して啓蒙活動を展開し、活発な言論活動を行います。しかし、梁啓超の言論活動は、1905年に中国同盟会を結成した孫文をはじめとする革命派から批判されます。中国同盟会の機関誌『民報』などで、孫文は立憲君主制を目指す梁啓超ら立憲派を時代遅れの保皇派として批判します。孫文ら革命派が目指したのは四大綱領の中でも示された通り「創立民国」であって、清朝の打倒と共和政の樹立でした。つまり、変法運動時点では進歩的とみなされた立憲君主制は、わずか数年後には皇帝制維持のための方便に過ぎない、時代遅れの考え方だとみなされていたわけです。このあたり、攘夷論、開国論、公武合体論、倒幕論などが入り乱れた日本の幕末のムードを彷彿とさせるものがあります。

 さて、やや脱線してしまいましたが、以上の内容を考えますと、「1900年の義和団事件のあと、革命派の勢力が拡大し、1905年には多数の留学生がいた東京で中国同盟会が結成された。その後、革命派は、( b )ら立憲派と激しい論争を展開することとなる。」というリード文中の( b )にあてはめるとすれば、梁啓超が適切だろうということになります。ただ、上述しました通り、( b )のヒントになりうるのはこの文章だけで、他の場所には( b )を確定できる要素が見当たりません。私は、高校受験生に対する出題であるということを考えた場合、解答者が「立憲派とは何か。革命派とは何か。」が把握できたかどうかが重要であると思いますので、解答と背景については一通り示した上で、「康有為でもいいよ。」という風に伝えることにしています。

 

(3、革命派と立憲派の論争)

・革命派:孫文(リード文からもわかる)、章炳麟、黄興ら

・立憲派:康有為、梁啓超ら

・「革命派vs立憲派」の論争とは「共和政vs立憲君主政(制)」

 

:革命派と立憲派については、すでにご説明してきました。高校世界史では立憲派と革命派の間に論争が展開されたことはあまり紹介されませんが、リード文から「革命派=中国同盟会」であることは自明ですので、革命派=孫文であることは確定できます。そこまで確定できれば、あとは立憲派が何かを割り出せばよいわけです。「立憲派」という名称から「立憲制、または立憲君主制を目指している」ことは推測可能ですし、時期や孫文ら革命派と論争していることなどから「立憲派=変法運動の指導者たち」であることを導くのはそこまで無茶な要求ではないかと思います。(梁啓超を確定させるのはかなり無茶な要求ですが。) 

ちなみに、立憲君主制は変法運動だけでなく、20世紀初頭には光緒新政の中で現実のものとされていきます。光緒新政の中心人物は西太后の意図を受けて改革を推進した袁世凱や、かつて洋務運動でも活躍した張之洞などでした。

 革命派が孫文であることがわかれば本設問では十分ですが、中国同盟会結成に際しては孫文の興中会以外にも、章炳麟の光復会、黄興の華興会などが母体になったことが知られていますので、そうした人たちを思い浮かべても良いかと思います。『民報』を中心とした言論活動では彼らのうち章炳麟や、後に国民政府の首班となる汪兆銘らが高校世界史で出てくる人物としてはかかわっています。

 

【解答例】

A、a:興中会、b:梁啓超、c:北洋軍閥、d:国民党、共和政を目指す孫文ら革命派は、「民族独立、民権伸長、民生安定」の三民主義と「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」の四大綱領を掲げて民族資本家や知識人、留学生などの支援を受けながら清朝打倒を主張したが、変法運動を主導した康有為や梁啓超ら立憲派は中国における共和政は時期尚早と考えて立憲君主政を主張し、革命派からは保皇派と非難された。

(すべて含めて200字)

 

【B】

(1、設問確認)

・史料を参考にせよ。

18801890年代に開化派のめざした改革はどのようなものであったか

18801890年代の開化派による改革は朝鮮の社会と政治をどのように変えたのか

 

(2、18801890年代の朝鮮)

:本設問を考える上では19世紀後半の朝鮮史に対する理解が必須です。簡単な流れを以下に挙げておきます。また、この時期の朝鮮史については甲午改革の部分を除いて、過去の記事にも掲載されています。

http://history-link-bottega.com/archives/cat_213698.html

 

1882年 壬午軍乱:大院君の閔氏に対するクーデタ

1884年 甲申政変:開化派(独立党)の閔氏に対するクーデタ→袁世凱による鎮圧

1894年 甲午農民戦争

      →日本側の朝鮮に対する圧力

1894年~1895年 甲午改革:開化派(金弘集[キムホンジブ]、朴泳孝ら)

    金玉均は18943月に上海で暗殺されている

1895年 三国干渉→日本の影響力が低下、政権内部の対立で崩壊、親露派の台頭

 乙未事変:閔妃暗殺(朝鮮公使三浦梧楼の関与が通説)

      乙未改革:金弘集が内閣を組織し、急進的改革

          →守旧派の激しい反発、国王高宗の露館播遷

金弘集は群衆により殺害される

 

※甲午改革、乙未改革を合わせて甲午改革ともいう

 

(3、史料確認)

[史料1:金玉均らが樹立した政権による改革方針]

:設問より、本史料が1884年のものであるのは明らかですから、この史料は甲申政変時のものであるということがわかります。史料の内容を簡単にまとめると以下の内容が読み取れます。

 ① 大院君の帰国要請

 ② 朝貢の「虚礼」の廃止(清の宗主権に対する反対、「独立党」)

 ③ 門閥の廃止と人民の平等

 ④ 地租の改革(汚職の一掃と財政再建

 

[史料2:18947月から8月に開化派が決定した改革方針](甲午改革)

:こちらの史料は甲午改革とよばれる1894年~1895年にかけて進められた近代化改革です。この甲午改革については高校世界史では通常出てきませんが、1894年が日清戦争の開始年、つまり甲午農民戦争の起こった年だということはわかりますので、「日清戦争の開戦で日本の影響力が高まる→朝鮮で開化派による改革が進む」ということを推測することはそこまで無茶な要求ではありません。また、本設問のメインテーマは「改革の目指したもの」であって、改革の背景ではありませんから、丁寧に史料読解を進めていけば世界史の知識に頼らなくても正解を導くことは十分に可能です。史料を読み取ると以下の内容が読み取れます。

 ① 開国紀年の採用(朝鮮独自の暦[従来は清の暦を使用]

 ② 門閥、両班、常民の平等と人材登用

 ③ 奴隷制の廃止

 ④ 税制改革(銭納)

 甲午改革を進めたのは金弘集や朴泳孝たちでした。金弘集が高校世界史で出てくることはありませんが、朴泳孝は甲申政変(1884)で知られています。金玉均は当時すでに暗殺されておりましたので、この改革には参加しませんでした。改革の内容を見ると、開化派(独立党)の目指す「清朝からの自立」と「近代化の推進」が目指されていることが読み取れます。たとえば、「開国記年の採用」は、それまでの清の暦(時憲暦)にかわる独自の暦法を採用しようということで、独立した国家としての体裁を整えていこうという姿勢の表れです。また、身分制や奴隷制の改革、税制改革による財政再建などは近代化を目指す姿勢の表れです。ただ、この甲午改革は民衆の支持を得ることができず、最終的には挫折をしていきます。

 

[史料3:189811月「中枢院官制改正件」]

:中枢院も高校世界史では全く出てきません。ですから、これは史料から何が問題となっているのかを読み取らなくてはなりません。

 ① 中枢院の役割

・法律・勅令の制定・廃止・改変

・行政府から上奏する一切の事項の審査議定

・人民が建議した事項を審査議定

 ② 議官の半数は政府から、半数は人民協会で投票選挙

この内容からは明らかに、中枢院を通して民衆が国政の場に参加するヨーロッパ型の議会を目指していることが読み取れます。

 

(4、全体のフレームワークを確認)

:以上の内容をもとに、設問の要求している「開化派の目指したもの」と「朝鮮の社会と政治の変化」をまとめると以下のようになるかと思います。

 

[開化派の目指した改革] 

① 朝鮮王朝の独立(清の宗主権の否定)

② 人民の平等

③ 有能な人材の登用

④ 財政改革

 

[朝鮮の社会と政治の変化]

 ① 朝貢や清暦(時憲暦)の廃止

  :清への服属から独立・自立した近代国家へ

② 人民の平等

 :両班の支配する世界から身分差のない社会へ

 ③ 奴隷制の廃止

  :②に同じ

 ④ 税の銭納

  :現物納から銭納への転換と財政の安定

 ⑤ 人民の国政への関与(中枢院議官の選挙)

  :議会制への転換

 

【解答例】

金玉均や朴泳孝ら開化派は甲申政変後の改革で閔氏と対立する大院君を担ぎ、朝鮮の独立、人民の平等、人材の登用、汚職一掃や税制改革を目指したが、清の袁世凱の介入で挫折した。その後、甲午農民戦争が起きて日本の圧力が強まると開化派は再び改革に着手し、朝鮮独自の暦の採用による清の宗主権否定や人民の平等と奴隷制の廃止、税の銭納などを方針とし、中枢院の議官の一部が選挙で選ばれるなど、人民の国政への参加が拡大した。(200字)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 2013年、一橋の第2問は、フランス革命の「革命」の解釈をめぐる歴史家の見解について比較させる問題でした。こちらに紹介されている歴史家たちは、史学、中でも西洋近代史を学ぶ大学生が必ずと言ってよいほど耳にする人々です。といっても現役の先生方ではなく、もう古典と言ってもよいくらいの方々ですから、もしかして今世代の大学生からは「それはお前が古いからだ!」とおしかりをいただくかもしれません。どの方もばっちりWikipediaに載ってる有名人です。(もっとも、これを見ただけだとよくわからないかもしれません)。

 ただ、本設問を説くにあたってこれらの歴史家を知っている必要はありませんし、ご存知であるという受験生もほぼいないと思います。(おそらく、一般に受験生に知られている歴史家または学者としては、ピレンヌとウォーラーステインくらいではないでしょうか。私の場合、口が滑らかになるとジャック=ル=ゴフとかブルクハルト、ホイジンガ、ジャネット=アブー=ルゴド、柴田三千雄や二宮宏之、ジョン=ブリュアあたりの名前を出すことはあるかなと思います。専門近代イギリス史のくせに微妙にフランスに偏ってるのは多分指導教員のせいですw) 大切なことはリード文を読み取ることです。この設問では、知識ではなく明らかに読解力が求められています。ですから、「受験生の知らない知識ばかりであるから」という理由で「悪問である」とは言えないと思います。

一時期、一橋ではかなりの率でこうした史資料読解を要求する設問が出題されておりましたし、今でも程度は軽くなったとはいえ、いくらかの史資料読解を要求する設問は出題されます。ですから、そうした問題の練習だととらえて解いてみても良いかと思います。古い出題傾向になりますが、以前このあたりの点についてはご紹介しています。(http://history-link-bottega.com/archives/cat_211752.html、ここ数年はまた出題傾向の変化が見られますので、古い分析はあまりあてになりません。最近は前からお話しているように、一橋の出題テーマが妙に東大臭くなってきています。) 

 

【1、設問確認】

・リード文中にある1787年の名士会の動きについて

①「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱」とみなされるか

②「革命」をどのようなものと考えると同じものが「革命」と見なされるか

 

(参考にすべきもの)

①絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化

②フランス革命の際のスローガン など

 

【2、名士会の動き】

:出題当時(2013年)、「名士会」という用語は高校世界史では一般的な語ではありませんでした。ですから、1787年に名士会が開かれたことやその意義などは、当時の受験生は全く知らなかったと思います。ですが、一橋入試ではそこでひるんではいけないのです。知らないことがあってもアッテンボローばりに「それがどうした!」といえる気概を持たなければとてもではないですが太刀打ちできません。「それがどうした!」と叫んだあとで、リード文をよく読んでみると、以下のことが読み取れます。

① 貴族への課税を中心とする改革案を作成した国王政府が1787年に召集

② 主として大貴族から構成される(会議)

③ 名士会は貴族が課税されることよりも、臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判

④ 全国三部会の開催を要求

 

 ぶっちゃけ、これだけ情報があれば十分じゃないですか?名士会。「習ってないから」というのが言い訳にしかならない、ということがよくわかる設問だと思います。けなしているわけではないですよ。人のやることや技術を見て覚えたり、習っていないことを自分の頭で考えて読み取る、ということがいかに学習をすすめる上で大切かと個人的には思いますので、強調しています。下手をすると大学院でも、大学や教授は知識を授けてくれる存在だと思っている人に出くわすことがあるのですが(多分本人に悪気はなく気づいていないだけなので責めるつもりはないのですが、時々話がかみ合わなくてイライラするのは一方的にこちら側なので困ります。でも、もしかすると向こうは「ものを知らないやつだなー」とこちらにイラついているかもしれません。)、大切なのは知識以上にどのような手法で調べ、分析し、考えるかという技術や作法の方なんです。知識なんて今どきネットで調べれば出てきますし、昔であっても調べれば誰でもわかる知識は、きちんとした手順を踏んで調べればわかりました。(もっとも、一定の作法をしらないと調べられない知識、というものはあります。現在でも、たとえばネットで情報を検索しようとするときに、お目当ての情報にすぐアクセスできる人と、そうでない人がいますが、これは「調べる」という行為に関しての技術と認識に差があるわけですね。)

 ちなみに、一橋で出題されたせいかは分かりませんが、最新の『詳説世界史研究』には名士会についての記述も載っています。一応、その部分についての文章も引用してみましょう。

 

ようやく1876年(原文ママ、1786年の誤り)、財務総監カロンヌは、すべての身分を対象とする新税「土地上納金」の設置を中心とする改革案をまとめ、翌年、臨時諮問機関である名士会に提出した。しかし土地上納金は第一・第二身分の免税特権を侵し、したがって身分制社会そのものの根幹にかかわる「国制問題」と受け止められて議論は紛糾し、名士会の解散とカロンヌの罷免に終わった。(『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.313

 

こちらの文章で読みますと、上にあげた③の部分が「国制問題」としてとらえられていることがわかります。もっとも、一橋の設問では、課税よりも「臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制」が問題とされていたとなっていますが、いずれにしても国制の根幹にかかわる事柄であったことには間違いがありません。

 

    ちなみに、「国制」というのは国の仕組みや成り立ち、制度、一定の政治原理に基づく国家の秩序のことを言います。

 

【3、各歴史家の説】

 リード文に書かれている各歴史家の説を比較して図示すると以下のようになります。

画像2 - コピー

 どの説においても、1787年の名士会をめぐる動きを「ブルジョワ革命(市民革命)」とはしていない点には注意が必要です。これをもとに、どのように見ると「反乱」でどのように見ると「革命」かを考えていくことになります。

 

【4、革命と反乱】

 ここで、革命と反乱とは何なのか、まず一般的な意味を考えてみましょう。

 

(革命)

・国家体制の転覆と新体制樹立

・社会システムの根本的改革

 

(反乱)

・政治体制、方針に対する不満表明と現実の抵抗

 

つまり、「革命」とは何らかの国家的・社会的基盤の変革をともなわないといけないわけですね。「反乱」の結果として「革命」につながることはあっても、何の変革もともなわない「革命」はあり得ません。たとえば、大塩平八郎の乱や米騒動を「反乱・暴動」とは言っても「革命」とは言わないでしょう。

 この議論・視点は実はとても重要で、たとえば「イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)」は「市民革命」といえるのかという問題とも絡んできます。ピューリタン革命は確かに王制を打倒して共和政を樹立したし、名誉革命はそれまでイギリスでは確立していなかった立憲君主制確立のきっかけをつくりしました。さらに、各種特権の廃止によって経済活動の自由がかなりの部分、保障されました。このような視点からみればイギリス革命はたしかに「市民革命」としての要素を持っていたといえます。一方で、コモンウェルスによる支配はほんの一時期であり、その中心は上層のジェントリたちでした。また、すぐに1660年の王政復古で覆ってしまいます。さらに、名誉革命はたしかに立憲君主制の基礎を作りましたけれども、実際に議会を牛耳っていたのは大貴族やそれらと一体化していくジェントルマンたち社会の一部上層だけでした。また、「君臨すれども統治せず」というのは高校世界史ではよく出てくる言葉ですけれども、実際には名誉革命後も国王は官職に関する人事や外交などに非常に大きな影響力を持ち続けたことが知られています。このように考えると、二度の「イギリス革命」を経ても社会構造の基本的な部分はほとんど変化がない、つまり「市民革命」ではないという見方も成り立ちうるわけです。

本設問はフランス革命をめぐる問題ですが、こうした「一つの現実(事実、または史料が示している事柄)」に対し、「複数の見方」が成り立ちうるという、歴史家として大切な視点をよく示した良問ではないかと思います。

 

【5、絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化】

:ただ、さすがにこの反乱と革命の説明だけで400字終わらせるわけにはいきませんので、設問が「参考にせよ」と言っている事柄との関連について検討していきたいと思います。絶対王政成立によって、国王と貴族の関係がどのように変化したのか、ポイントをしめすと以下のようになるかと思います。

 

① 貴族の廷臣化(封建領主→宮廷を中心とする官僚へ)

② 貴族の国政に対する発言権が失われる

cf.) 1615 三部会の招集停止(ルイ13世期)

    1648-53  フロンドの乱→高等法院の力が弱まる

③ 貴族の免税特権など封建的諸特権は維持

   =貴族に対する課税は封建的諸特権に対する侵害

④ 1787年時点における三部会の開催要求は中世以来の慣習の復活

   =絶対王政期におけるアンシャン=レジーム自体の変革ととらえるべきか否か

 

【6、フランス革命期のスローガン】

最後に、フランス革命期のスローガンとの関係について考えてみましょう。フランス革命のスローガンとは何ぞ?となるかもしれませんが、一般的には「自由・平等・友愛(博愛)」がフランス革命の理念(スローガン)とされています。ただ、高校世界史で考えた場合(というか私の個人的な好みの問題もあるのですが)、フランス革命初期の段階で重要な理念というのは「自由・平等」に加えて「所有権(財産権)の不可侵」ではないかと思います。というのも、フランス革命の理念に「友愛(博愛)」の精神が加わるのは革命が進んで少し後になってからのことだからと言われているからです。例えば、1789年に国民議会(憲法制定国民議会)が定めた「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」には、「友愛」に関する事柄は一切見られません。『詳説世界史研究』(2017年版、p.314)では、人権宣言が定めた基本的人権を「自由・所有・安全・抵抗などの基本的人権」としています。これは、人権宣言の第2条が「すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。(Le but de toute association politique est la conservation des droits naturels et imprescriptibles de l'homme. Ces droits sont la liberté, la propriété, la sûreté, et la résistance à l'oppression.)」とあるところからでしょう。また、「平等」については第1条などによって保障されています。最後の第17条が「所有権の不可侵」となっていることも印象的です。

これは、人権宣言の出された時期にフランス全土に「大恐怖」と呼ばれる農民たちの暴動が広がっていたことがあります。当時の国民議会の代表者たちはたしかに第三身分の代弁者であることを自認していましたが、どちらかといえば社会の上層に属する人々でした。そもそも、パリくんだりまでやってきて何か月も会議に参加できる時点で間違いなくアッパークラスです。働きもせず、何か月もひたすらネットカフェで豪遊しつつアニメ談議に花を咲かせるナイスガイを想像してみましょう。どう考えても金持ちのドラ息子です。そうした人々が全土で貴族や金持ちの館が農民に襲われる様子を見て、安閑としていられるはずがないわけですね。「おれん家や親戚が襲われたりしたらどうしよう…」、これですよ。ですから、国民議会の議員たちは「おれたちは第三身分の味方ですよー」という姿勢を崩さないまま、全土の「大恐怖」を落ち着かせる極めて困難なかじ取りを要求されます。これは難しいですよ。流されやすい大衆によって構成されているクラスなんかを想像してみるといいですよ。クラス全体が誰かをいじめているときに「やめろよ!」っていうことがいかに危険か。まず間違いなく、「なんだよ、お前〇〇の味方すんのかよ」という感じで、明らかにマンガだったら嫌な奴キャラになってしまっていることに気づかない奴が、いじめを止めた人間を「〇〇の味方」扱いしてきます。つまり、当時「暴動や略奪はやめよー(うちが襲われると困るから)」と国民議会が声を発することは、「んだよ、おまえら貴族の味方かよ…。やっちまえ!」となる危険性をはらんでいるわけです。

そこで国民議会が出したものが「封建的諸特権の一部廃止」と「(フランス)人権宣言」です。つまり、「君たちを苦しめていた貴族の特権はなくなったんだよ!君たちは自由だ!」ということを打ち出して第三身分の不満の原因を解消するとともに、「これをみんなに保障した国民議会は第三身分の味方!」というアピールを行うわけですね。ところが、貴族の土地については有償でしか入手できませんでしたので、実際に17898月の時点で土地持ちに慣れたのは、土地の代償を払うことができる一定の財産を持ったものだけでした(当時土地の入手に必要とされたのは20年分程度の税にあたる金額が必要)。そして、人権宣言ではところどころに「所有権!所有権!所有ケンケンケケンケン!Let’s Go!」と所有権の不可侵性を示します。

これは、「みんな誰かにものを奪われるのは嫌な気分だよね?だって、所有権は自然権で、基本的人権なんだ!だから人のものを奪うことは悪いことなんだよ!」→「貴族の土地は代々彼らが持っていた所有物だよね?もちろん、彼らだけが土地を持っているのは不公平だから譲ってもらうべきだけど、その分の代償を払わないのは泥棒だよね!」という形で、当時全土に広がっていた暴動・略奪を鎮めようとしているわけです。彼ら(国民議会)の究極の目的は「農民が過激化してうちまで襲われたらたまらんから、おれらの所有物はしっかり保護しないと!」です。

以上、歴史学的に厳密で正しくはないかもしれませんが、革命初期の雰囲気はこのように理解するとわかりやすいかと思います。革命の理念についてポイントをまとめるなら、以下のようになるのではないかと思います。

 

① 自由・平等

cf.)  自然権思想、ルソーなどの啓蒙思想家、『人間不平等起源論』(ルソー)

    シェイエス『第三身分とは何か』

② 所有権の不可侵

→当初は「自由、平等、財産」が問題となっていた

 

【解答例】

1787年に貴族が招集されて開催された名士会は国王に対して全国三部会の招集を要求したが、これを免税特権などの既得特権を守るために貴族が国王の政策に対して示した反抗と考えれば、マチエや柴田のように「反乱」ととらえられる。一方で、三部会停止やフロンドの乱鎮圧以降、絶対王政期に廷臣の地位に甘んじて臨時にしか国政に発言できなかった貴族が、アンシャン=レジーム下における政治体制そのものの変革と、中世以来の貴族の政治特権の回復を求めたものと考えた場合、名士会の動きはルフェーブルのように「貴族革命」ととらえることができる。フランス革命の理念である自由・平等はこの段階では見られず、シェイエスが『第三身分とは何か』で示した第三身分を国の根幹とする発想はないため、ルフェーブルの場合においても名士会の動きは「ブルジョワ革命」とはとらえられず、柴田においても革命の開始は国民議会が成立し、人権宣言の出された1789年とされた。(400字)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 しばらくさぼっておりました一橋の問題解説を進めていきたいと思います。ぶっちゃけ、一橋の過去問は何度も何度も解いておりまして、一応解説も昔作ったもののストックがあるにはあるのですが、過去問というのは面白いもので、時間がたってもう一度解いててみようかなと思うとまた違った見方ができたりしていくつかの解答が出来上がったりします。特に古い問題の場合には、最近の歴史学の研究動向の変化や新説などの登場によって、当時正解であった解答が現在も最適解かというと、必ずしもそうでなかったりするのですね。

そんなわけで、執筆するとなると再度検討して書き直すことになるのですが、最近少々忙しいもので、一度に同じ年度の大問1~大問3の解説を執筆しようとすると「いつまでたってもやらない(めんどくさがりなもので)」ことになります。昔オカンに「あんた、いつになったら勉強するの!」と怒鳴られた中高時代から全く変わっておりません。まぁ、そんなわけですので、しばらくの間は時間のある時に大問ごとに解説を執筆していきたいと思います。

 

一橋2013 Ⅰ

 

【1、設問確認】

①中世ドイツの東方植民の経緯を述べよ。

 (送り出した地域の当時の社会状況をふまえよ)

②植民を受け入れた地域が近代にいたるまでのヨーロッパ世界で果たした経済史的意義について論ぜよ。(その地域の社会状況の変化に言及せよ)

 

:設問の要求は非常にシンプルです。要は、東方植民の経緯とエルベ川以東の地域が世界史上果たした経済史的意義について書きなさい、ということです。

 

【2、東方植民の経緯】

:それではまず、東方植民の経緯について考えてみましょう。東方植民とは、11世紀~14世紀にかけて展開されたエルベ川以東を中心とするヨーロッパ北東部へのドイツ人の植民活動のことです。この経緯を書かなくてはならないのですが、「経緯」とは物事の筋道やいきさつ、顛末のことですから、通常は「どのようにして始まり、どのようにして展開し、最終的にどうなったか」を示すことになります。これを東方植民について示すのであればおおよそ以下のような内容になると思います。

 

ドイツの諸侯・騎士・修道会を中心にエルベ川以東のスラヴ人地域に植民を開始

(シュタウフェン朝時代が中心)

②シトー修道会などの修道会の開墾運動

③ドイツ騎士団の活動と布教

:ポーランドの招聘による。バルト海沿岸に進出、周辺のスラヴ系住民に布教

④この過程で新たなドイツ諸侯領が形成される

Ex.) ブランデンブルク辺境伯領、ドイツ騎士団領

以上のような内容を、「送り出した地域の当時の社会状況」と結びつけるような形で示す必要があるわけです。

 

<ドイツ騎士団領ならびにプロイセンについて>

余談ですが、ドイツ騎士団領とプロイセンの関係については受験生には見えづらい部分になりますので追加で説明しておきます。(ただし、本設問では送り出した地域、受け入れた地域双方の「社会状況」を踏まえた経緯説明を求められておりますので、政治史の一環としてのドイツ騎士団領形成は設問解答には一切含む必要はありません。もっとも、「経緯について述べよ」の部分には「社会状況を踏まえて」とはありますが、「社会状況のみを述べよ」とは書いてありませんので、物事の顛末としてのドイツ諸侯領形成を示すこと自体は問題ないと思います。(後に示しますが、諸侯領の形成自体がエルベ川以東の社会状況変化にかかわってくる部分もありますので、その限りにおいては問題ないということです。政治的な出来事としてのみ示すのはイケてないとおもいます。少なくとも、加点はされないのではないでしょうか。)

さて、ドイツ騎士団領は同地域のプロテスタント勢力が拡大するにしたがってカトリックの騎士修道会としての体裁を保つことが困難となりました。そのため、当時の騎士団総長アルブレヒト=フォン=ブランデンブルク=アンスバッハは騎士団総長を辞し、その配下の騎士たちとともにポーランド王からの授封を受けて世俗の領主となり、プロイセン公となりました(1525)。これにより、それまで騎士修道会領であったドイツ騎士団領はプロイセン公国という世俗君主領となります。

その後、17世紀の初めに初代プロイセン公アルブレヒトの男系血統が途絶えると、アルブレヒトの孫娘であったアンナの夫であるブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国を継承することが認められ、この時点でブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国は同君連合となりました(1618、ブランデンブルク=プロイセンの成立)。ですが、この段階ではブランデンブルク選帝侯国は神聖ローマ帝国に属し、プロイセン公国はポーランド王の封土でした。

このような状況を変化させたのがフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯(位16401688です。フリードリヒ=ヴィルヘルムは世界史の教科書や参考書にも登場しますが、ブランデンブルク=プロイセンの時期の君主であり、後に成立するプロイセン王国の君主としては数えられないので注意が必要です。(ご先祖ではありますが。)2020年の早稲田の政経の問題にも登場していましたね。彼の時代に、ポーランドとスウェーデン間の争いから、プロイセン公国は一時スウェーデン王の封臣の地位に置かれます。ですが、その後スウェーデンへの軍事奉仕を提供する中で存在感を増したフリードリヒ=ヴィルヘルムは、当時のスウェーデン王カール10世に独立国としての地位を認めさせることに成功します(1656、ラビアウ条約)。さらに、その後同様の内容をポーランドにも承認させたプロイセン公国はポーランドの臣下でもスウェーデンの臣下でもない、独立した地歩を築くことに成功しました。フリードリヒ=ヴィルヘルムの子であるフリードリヒの時代にスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国を支援する見返りとして、当時の神聖ローマ皇帝レオポルト1世はフリードリヒに対してプロイセンにおける王号の使用を認めます(1701)。この時点で、高校世界史では「プロイセン王国」が成立したと考え、ザクセン選帝侯にしてプロイセン公であったフリードリヒは、プロイセン王フリードリヒ1世(位17011713)として即位します。彼の息子がプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位17131740:兵隊王、軍隊王)であり、孫が啓蒙専制君主のフリードリヒ2世(位:17401786)となります。

 

【3、当時の西欧、ドイツ(送り出した地域)の社会状況】

:さて、続いて東方植民を「送り出した地域」の社会状況についてです。問いの冒頭で「中世ドイツの」と言っているにもかかわらず、わざわざ「送り出した地域」という表現を用いているところに注目したいと思います。もし単純に送り出した地域をドイツとするのであれば、わざわざこうした表現はとらないのではないでしょうか。教科書的にも、東方植民は十字軍やレコンキスタ、東方貿易などと同様に西欧の膨張の一つとしてとらえられていますから、ここはやはり送り出した地域はドイツのみに限定するのではなく西ヨーロッパ世界全体としてとらえたいところかと思います。ただ、一方でよりミクロな視点、ドイツの実情に即した視点なども必要でしょう。以上を踏まえて当時の西欧・ドイツの社会状況をまとめると以下のようにまとめられるかと思います。

 

① 西欧の膨張(11c~ 十字軍、レコンキスタ、東方貿易etc.

(背景)

・農業技術の進歩(三圃制、重量有輪犂、繋駕法や水車の改良など)

・気候の温暖化

生産力の向上と人口増加

・宗教的な熱情の高まりと巡礼熱

Ex.)ドイツ騎士団、シトー修道会と大開墾   

② 人口増と西欧の膨張にともなう植民運動の発生

・人口増(困窮)、賦役貢納厳しい

土地の相続から排除された農民の子弟を中心に植民運動が発生

③ 領国開発を目指す諸侯による植民活動支援

・各地の諸侯が植民請負人に委託して入植者を招致

→入植者には開墾後の一定期間貢租を免除するなどの植民法が適用

 

 ほとんどは教科書や参考書に書いてある基本的な事柄ですから、全てをおさえられないにしてもある程度のレベルでまとめることは可能だと思います。

 

【4、エルベ川以東(受け入れた側)の社会状況の変化】

 つづいて、エルベ川以東の社会状況の変化についてまとめてみましょう。その前に、そもそもエルベ川とはどのように流れていて、「エルベ川以東」とはどのあたりのことを指すのか正確に把握しておきましょう。

c_22_germany_500n

 正確に、と言っておきながらだいぶ大雑把な線ですみません。ただ、世界史では正確な地図よりも位置関係を把握することが大切です。よく、道に迷わない人は地図を見るのではなく、目印になるものを把握するのだと言われます。道順や形を覚えるのではなく、「目的地に向かうには郵便局のある角を右にまがる」という把握の仕方ですね。世界史は地図を書く科目でも正確で精緻な地理的知識を問う科目でもありませんから、自分がイメージできる程度にだいたいの地理を把握することが大切です。

 そのような把握の仕方ですと、エルベ川の把握の仕方は「ユトランド半島の付け根、西の方に河口があり、ドイツを袈裟懸けにバサーッとぶった切ったように流れる川で、河口にはハンブルク、上流にはドレスデンが位置している」という把握の仕方ができれば十分なのではないかと思います。この川以東、ということですから、東方植民に従事した人々が移住したのはドイツの北東部の肩のあたりからポーランド、バルト海方面にかけてということになります。

 それでは、東方植民の結果、これらの地域はどのように変化したのでしょうか。

 解答としてイケてないのは、「東方植民の結果、エルベ川以東にはブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの諸侯領が成立した。」でしょう。これは政治的な変化を示したものにすぎず、社会的な変化、つまり人々の生活の仕組みや価値観の変化には一切言及していません。むしろ、当たり前のことではありますが、農村や都市の発展などにより同地域の経済活動が活性化されたことを示してはどうでしょう。これであれば十分に人々の生活のしくみ、つまり社会状況の一面を示したことになります。また、同じ諸侯領について語る場合でも「ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定は周辺地域の経済活動の活発化や都市の発展につながった」とすれば、先ほどまでは「役立たず」であった諸侯領を、社会状況変化の原因の一つとして活用することができます。ちなみに、以下はドイツ騎士団領と騎士団の拠点分布を示したものです。

1920px-Deutscher_Orden_in_Europa_1300

Wikipedia「ドイツ騎士団」:1300年、バルト海沿岸の薄い青色が騎士団領)

 

また、設問がエルベ川以東の地域の「世界の中で果たした経済史的意義とその地域の社会状況の変化」を聞いていることから、教科書的にはすぐ「再版農奴制とグーツヘルシャフトの形成」や「東西ヨーロッパの国際分業体制」を思いつきますが、果たしてそれだけで良いものでしょうか。もちろん、それだけでも十分に立派な解答になりますし、おそらく出題者も究極的にはそこを求めているのだとは思います。ですが、東方植民の開始は11世紀後から、再版農奴制やグーツヘルシャフト、国際分業体制の成立は16世紀頃~17世紀にかけてで、いかにも離れすぎてしまう感があります。そのあたりのことを考えても、東方植民がバルト海沿岸地域を活性化させ、商業の復活の一翼を担ったことは示しても良いのではないかと思います。以上のことをまとめると以下のような内容になるかと思います。

 

① 東方植民の進展による農村や都市の発展

  Ex.) ダンツィヒなど

:ハンザ諸都市の通商網の中に組み込まれる

 日用品の取引(穀物、木材、毛皮、毛織物、ニシンなどの魚加工品)

② 再版農奴制

  ・農奴解放が進んだ西欧と対照的に領主による農奴の支配が続く

  ・16世紀以降、プロイセンなどの領主(グーツヘル)たちがグーツヘルシャフト(農場領主制またはそれによる大農園)を形成

   土地貴族(ユンカーの形成)

 

 補足しますと、ダンツィヒは14世紀にドイツ騎士団支配下で都市として成長し、国家建設にいそしんでいたドイツ騎士団が必要としていた木材や穀物などの取引に積極的にかかわり、それが安定すると今度はポーランド各地から集まるの品物の輸出なども展開します。

 また、東欧では農奴解放が進んだ西欧と違い再版農奴制が進みますが、ポーランドをはじめとした東欧各地では、西欧において農奴解放の原因の一つとされる14世紀のペストの発生率が比較的低かったことも指摘されています。

Pestilence_spreading_Japane
Wikipedia「ペストの歴史」より)

 

最後に、本設問とは直接関係はないのですが、再版農奴制の法的廃棄の開始は18世紀末か、19世紀に入ってからになります。

(オーストリア) 1781 農奴解放令(ヨーゼフ2世)

 (プロイセン)  1807~ シュタイン・ハルデンベルクの自由主義改革の時

 (ロシア)    1861 農奴解放令(アレクサンドル2世)

[クリミア戦争敗北が契機]

 

【5、エルベ川以東が近代にいたるまでのヨーロッパ史で果たした経済史的意義】

 最後に、すでに「4」である程度述べてしまっていますが、エルベ川以東の東方植民の対象となった地域が世界の中で果たした経済史的意義についてまとめておきます。

 

① 商業ルネサンス(商業の復活)の一翼を形成(12世紀以降)

 ・北海、バルト海交易の活発化 ex.)ダンツィヒの繁栄

  ドイツ騎士団領成立による政治的安定

 ・ハンザ同盟の通商網と連結、日用品の取引(魚加工品、穀物、毛皮、木材)

② 国際分業体制の形成

 ・商業革命を達成した西欧に対して穀物を輸出する農場領主制(グーツヘルシャフト)

 

 リード文が長く、思わせぶりな設問であるわりに設問の要求自体はシンプルで、聞かれている事柄も基本的な事柄、わかりやすい事柄であったのではないかと思います。一方で、基本的である分、どの程度まで細部を丁寧に示せるかは受験生の理解度が試される部分でもあったのではないでしょうか。一橋ではたびたび北海・バルト海沿岸地域や東欧地域の社会経済について問う問題が出題されますので、注意が必要かと思います。

 

【解答例】

11世紀頃から西欧では三圃制や重量有輪犂などの農業技術進歩と気候温暖化により、農業生産力が向上し人口が増加した。厳しい賦役貢納と土地不足により、余剰人口はエルベ川以東など周辺地域への植民活動を開始し、諸侯は植民請負人による入植者招致や、開墾後の一定期間貢租を免除する植民法の適用などでこれを奨励した。同時期の西欧における巡礼熱や宗教的熱情はシトー修道会の開墾運動やドイツ騎士団の入植運動を活発化させた。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの形成による政治的安定と、植民者・開墾地の増加は周辺地域の経済活動を活発化させ、ダンツィヒなどの都市が発展し、バルト海沿岸は商業ルネサンスの一翼を担い、穀物や木材などの日用品取引でハンザ同盟の通商網と連結された。16世紀以降は再版農奴制により農奴支配を強化した領主がグーツヘルシャフトを形成し、商工業の発展した西欧へ東欧が穀物を輸出する国際分業体制を支えた。(400字)

 

【補足:(「ハンザ同盟」について)】

 ハンザ同盟についてですが、近年記述の見直しが進んでいます。昔は比較的結びつきの強い同盟のように描かれていて、共通の商取引の取り決めや、共通の軍隊を保有していたと書かれていることもありました。しかし、近年では各都市が自己の利益のために行動することがあったこと、あくまでも商業目的の各都市のゆるやかな連携にすぎず、自警力や都市の代表会議は持っていたけれども、常設・共有の軍隊は保持していなかったこと、「同盟」という語はその実態に比してやや響きが強すぎることなどが指摘されるようになりました。そのせいか、直近の『詳説世界史研究』ではハンザ同盟についてかなり記述量が減ってきています。また、山川の用語集の記述もかなりマイルドになってきています。

 

(例) 「13世紀~17世紀まで北ヨーロッパに存続した通商同盟ハンザ同盟は14世紀に最盛期を迎えた。」(『詳説世界史研究』山川出版社、2019[3]p.175

    …ちなみに、ハンザと結びつけない形でリューベック・ハンブルクなどの北ドイツ諸都市や北海・バルト海沿岸諸都市が行った木材・海産物・塩・毛皮・穀物・鉄・毛織物などの取引については別途示されています。

 

 一方で、教科書の方の記述は依然として内容をぼかしているもの、またははっきりと軍隊を保有していると書いているものなど様々で、まだ過渡期にあるようです。

 

(例2) 「とくにリューベックを盟主とするハンザ同盟は14世紀に北ヨーロッパ商業圏を支配し、共同で武力をもちいるなどして大きな政治勢力になった。」

(『改訂版詳説世界史B』山川出版社、2016年版、2020年発行)

(例3) 「北ドイツの諸都市は、リューベックを盟主とするハンザ同盟を結成して、君侯とならぶ政治勢力となった。」

     「(※ハンザ同盟の注として)→13世紀半ばにはじまり、最盛期には100以上の都市が加盟した。ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドなどに商館を置き、共同の海軍も保有した。」

(『世界史B』東京書籍、平成28年版、平成31年発行)

 

 この辺りの事情について、「世界史の窓」さん(いつも大変お世話になっておりますw)では高橋理先生の研究の影響などを指摘されています。また、ハンザ同盟の項目については同氏の『ハンザ「同盟」の歴史』創元社、2013年を参照されています(https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-070.html)。Wikipediaの方の記述もいつの間にかいやに詳細になっておりまして、そちらも出典はこちらの本のみに依拠しているようです。(Wikipediaハンザ同盟」) ちなみに、高橋理先生は弘前大、山梨大、立正大などで教鞭をとられていた歴史学教授です(2003年に退官されています)。

 では、受験生はどちらで覚えなくてはならないのだろうかということなのですが、歴史学会で出てくる新説を高校生が常に把握するなどということは到底不可能ですから、基本的には各教科書の記述に従って良いと思います。おそらく、「軍隊を持っていた」と書いたからと言って不正解にするような狭量なことは大学側もしないと思いますし、できないと思います。(教科書を持ってこられて「ほら、ここに書いてあるじゃないですか」と言われたらどうにもなりませんし、その主張を否定すれば公平性の観点から行っても問題があります。)ただ、こうした新しい視点を知っておくと理解が深まりますし、イメージも厚くなります。また、こうした新しい視点というのが往々にして大学入試のテーマの一つとして盛り込まれることもありますので、「最近はこういう風に変わってきているんだなぁ」くらいのイメージ・理解はしておいて損はないと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ