(2022.3.2、一橋2012年の大問Ⅱ、大問Ⅲの解説を追記しました。)

一橋2012 Ⅰ
 
 今回は、一橋2012年のⅠ、ナントの勅令(王令)公布をめぐる問題について解説していきたいと思います。一橋では頻出の宗教と国家の関係を答えさせる問題です。この前年の2011年にもフス戦争をめぐる問題が出ましたが、フス戦争と比べるとナントの王令が公布されるまでの経緯、つまりユグノー戦争の経過について書くことは当時の受験生にとってもそう難しくない内容だったのではないかと思います。一方、そのディテールということになると細かい内容まで書ける人と書けない人で多少の差がつく問題だったのではないでしょうか。概要についてはみんながよく知っている内容である反面、情報の総量としては世界史の教科書や参考書に記載されている内容はそれほど多くはありません。

ためしに、現在の『詳説世界史B』(山川)と『世界史B』(東京書籍)の2016年版でユグノー戦争の箇所を見てみましたが、いわゆる3アンリの対立(ギーズ公アンリ、アンリ3世、ナヴァル王アンリ[アンリ4])などについては一切記述がなく、新旧両派の人物として名前が挙がっていたのは国王シャルル9世、摂政カトリーヌ=ド=メディシスとアンリ4世くらいのものでした。

一方、最新の『詳説世界史研究』(山川、2017年版)の方にはさすがにかなり詳しく載っています。シャルル9世やカトリーヌ=ド=メディシスはもちろん、ギーズ公フランソワとアンリの父子、コンデ公ルイ(アンリ4世のおじ)、アンリ3世(シャルル9世の弟、ヴァロワ朝最後の王)などの名前や、ユグノー戦争中の彼らの行動についても書かれていますので、ここに書いてある知識があるとかなり文章を作るのは楽になったのではないかと思います。これらはそこまで特別な知識というわけではなく、少なくとも高校生の頃の私は『詳説世界史研究』をベースに勉強していたこともあってコンデ公ルイ以外の名前は当時から知っていたというか、覚えておりました。また、ここには載っておりませんが、当時は確か載っていたコリニー提督(プロテスタント側の人物としてサン=バルテルミの虐殺で殺されてしまった人)も覚えてましたね。ホンマに、世界史だけはよく頑張っておりました。もうちょっと別の科目に力を振り分ければよかったのに…。

それでは、試験当時の2012年はどうだったのかなと思いましたので、旧版の『詳説世界史研究』(山川、2008年版)を確認してみましたところ、以下のような文章になっていました。

 

 「…ユグノーは、人口のうえでは少数であったが、王権による中央集権化に対抗する中小貴族、指導者としてブルボン家のナヴァル王アンリなど有力貴族も含み、社会的・政治的に無視できない勢力となった。カトリックの指導者である有力な貴族にはギーズ公がいて、ユグノーに強硬な姿勢をとった。ギーズ公は、国民の多数派のカトリック教徒に大きな影響力をもっただけに、王室にとっては警戒すべき存在であった。シャルル9世が幼少で即位して以来、宮廷ではメディチ家出身の母后カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握っていたが、彼女は新旧両教徒を対立させたバランスのうえに王権の伸長をはかろうとした。

 1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン=バルテルミの虐殺では、コリニー提督をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

 この事件に関する死者は全国で3000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ=ド=メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。国王アンリ3世によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

 アンリ3世が暗殺されてヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世がフランス国王位に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの王令(勅令)を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。」

(『詳説世界史研究』山川出版社、2016[2008年版第11]pp.306-307、人名や事件名の英語訳並びに人物の生没年、在位年等については省略)

 

 …もうこれが答えでよくないですかw? つまり、当時の受験生にとっても勉強の仕方によってはこちらの設問は十分に対処しうる設問であったことは間違いありません。(書いてあるのだから。)もちろん、これだけの情報を用意できない場合には、フランスでユグノーが拡大する前段階としてのドイツならびにスイスの宗教改革の詳細を書くという手もあるにはあると思います。(実際、私の解答例でもドイツ、スイスの宗教改革については言及しました。少なくともフランスでユグノー[カルヴァン派]が広がった背景としては示す必要があると思います。) ただ…、設問を見る限りどこにも「ヨーロッパの」政治状況及び宗教問題に焦点をあてろ、とは書いていませんし、設問の「当時の」が指す内容は「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」であることは明らかですから、やはりドイツ、スイスの内容でおなか一杯にしてしまう解答の書き方はどちらかといえば逃げの解答(悪いとは言いません。書けないときにはそうした逃げや不時着大切という)ではないかなと思います。


 
【1、設問確認】

 ・ナント勅令(王令)[設問原文ママ]公布に至るまでの経緯と目的を説明せよ。

 ・当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てよ。

 

:非常にすっきりとした要求です。リード文も短く、ここにいう「当時の」が「16世紀後半のフランスで30年にわたって続いていた長い戦乱」の時期のという意味であることは明らかですので、設問を読みかえると「ユグノー戦争の背景と経過を当時の政治状況と宗教問題に焦点をあてて説明し、ナントの王令公布の目的を合わせて説明せよ」ということになります。

 

【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】

 それでは、16世紀後半のフランスの政治状況、宗教問題に注目しつつ、ナント勅令(王令)が出されるまでの経緯についてポイントは何かを確認していきましょう。

 

①ドイツ、スイスの宗教改革

:ルターによる宗教改革開始と、カルヴァンによるスイス宗教改革におけるカルヴァン派の広がりについては前提条件として示しておいた方が良いと思います。また、カルヴァンの示した予定説と蓄財の肯定という教義はヨーロッパの北西部、商工業者を中心に支持者を急拡大していくことになります。(もっとも、フランスではむしろカルヴァン派[ユグノー]はフランス南部からフランス西部にかけて多く存在していました。)

Huguenot_in_17c
Wikipedia「ユグノー」より)

 

②フランスにおけるカルヴァン派(ユグノー)の拡大

 

③カトリックとユグノーの対立

:フランスではすでに16世紀の前半からユグノー人口が増え始めておりましたが、16世紀の中頃になるとブルボン家やコンデ家などの大貴族にユグノーが増えてきます。これは、当時彼らの政敵であったギーズ家に対抗するという政治的な事情からとも見られますが、こうした貴族間対立が生じ始めていたころ、アンリ2世がイタリア戦争終結(カトー=カンブレジ条約)に関連する祝宴での馬上試合で事故死してしまいます。(1559年) その後、長男フランソワがフランソワ2世として即位しますが、病弱であった彼はわずか即位後わずか1年、16歳で亡くなります。残されたアンリ2世妃、フランソワ2世母のカトリーヌ=ド=メディシスは幼少のシャルル9世を抱えて、フランスの大貴族がひしめく中難しいかじ取りを迫られます。摂政となった彼女が選んだのは、新旧両派が相争う中で調停者としてふるまい、両派に影響力を行使することで王室の権力を維持するという方法でしたが、これにより新教旧教両派の争いはさらに激しさを増していきます。

 

④ユグノー戦争の勃発(ヴァシーの虐殺、1562

:カトリックとユグノーが対立する中、カトリーヌ=ド=メディシスはユグノーに一定の条件下での信仰と礼拝を許可します。ところが、この条件を破る形でユグノーが礼拝していたことに憤慨したカトリック派の首領、ギーズ公フランソワはフランス北東部の町ヴァシーで多数のユグノーを虐殺しました。このヴァシーの虐殺に驚いたユグノー側の大貴族コンデ公ルイはカトリック側との戦端を開きます。これがユグノー戦争の開始です。

 

⑤サン=バルテルミの虐殺(1572

:その後、ギーズ公フランソワの暗殺(1563)やコンデ公ルイの戦死(1569)など、カトリック・ユグノー両派ともに多くの犠牲を出しつつ、ユグノー戦争は断続的に続いていきます。こうした中、カトリーヌ=ド=メディシスは国内をまとめるためにユグノーとの和解を模索し、自分の娘であった王女マルグリットとユグノーの盟主であったブルボン家のナヴァル王アンリとの結婚にこぎつけます。ところが、その婚礼祝いのために集まったカトリック・ユグノー両派の間で対立が生じ、最終的にはカトリック側(ギーズ公アンリ)によるユグノーの大量虐殺が発生します。(きっかけはユグノー派のコリニー提督暗殺未遂事件でした。この事件を聞いたカトリック側は、ユグノーからの報復を恐れて先手をとってコリニー提督を殺害してしまい、そこから大虐殺へ発展します。)これがサン=バルテルミの虐殺です。

san
Wikipedia「サン=バルテルミの虐殺」)

 

この虐殺事件により、新旧両派の対立は解決が困難な状態となり、内戦が泥沼化していきます。また、ユグノーの側には周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)が肩入れし、カトリックの側にはカトリック勢力(特にスペインなど)が支援したことで国外勢力の動向も一定の影響を与えました。

 

⑥「3アンリ」の対立

:サン=バルテルミの虐殺以降、フランスは病死したシャルル9世に代わって即位した弟のアンリ3世(ヴァロワ家)、カトリックの指導者のギーズ公アンリ、ユグノーの指導者のナヴァル王アンリ(後のアンリ4世、ブルボン家)による三すくみの状態が続いていきます。しかし、ギーズ家の勢力拡大を嫌ったアンリ3世はギーズ公アンリを暗殺します。(1588年) 

Guise-Henri
Wikipedia「アンリ1世(ギーズ公)」)

 

どうでもいいことではあるのですが、ギーズ公の肖像画はどれ見ても意外にイケメンなんですよね…。神経質そうな顔はしてますが。アンリ4世がいかにもおっさん風で、日本史で言うと徳川家康風味なのと比べるとずいぶん違います。

Henry_IV
Wikipedia「アンリ4世(フランス王)」)

 

脱線してしまいましたが、このこととユグノー勢力との協調関係に入ったことがカトリック勢力から激しく糾弾され、アンリ3世自身もドミニコ会修道士ジャック=クレマンによって殺害されてしまいました。これにより、ヴァロワ朝は断絶しますが、死の床についたアンリ3世はナヴァル王アンリを呼び、後事を託しました。これにより、ブルボン家のナヴァル王アンリはアンリ4世としてブルボン朝を創始します。

 

⑦ナヴァル王アンリの国王即位(アンリ4世、ブルボン朝の開始)とカトリック改宗

:アンリ3世の遺言により国王に即したアンリ4世でしたが、アンリ3世自身がカトリックから敵視されていたこともあり、フランスの多数派であるカトリックはアンリ4世を国王として承認しませんでした。また、カトリックの側にはローマ教皇やスペインの支援などがなされていました。特に、カトリックが圧倒的多数であったパリは、新国王の入城を拒み続けていました。このような状況を見たアンリ4世は、カトリックに改宗します。(1593年)これを好感したフランス人たちは、長く続く戦争に疲弊していたこともあってアンリ4世の改宗を歓迎します。そしてアンリ4世は翌年ついにパリに入城します。その後、アンリ4世はスペインと結んで抵抗する残党を平定します。

 

⑧ナントの勅令(1598

:国内を安定化させることに成功したアンリ4世は、1598年にナントの勅令(王令)を公布し、一定の条件の下でユグノーに個人単位の信仰の自由を与えました。(ユグノーはカトリック教会への十分の一税の支払いが必要) また、あくまでもカトリックがフランスの国家的宗教であることを明示したため、これ以降フランス国内では目立った宗教対立は起こらず、ユグノー戦争は終結します。

 

    ナントの勅令については、本設問とは関係がありません(答えに書く必要は全くない)が1685年のルイ14世によるフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令廃止)と、商工業者の亡命までセットでおさえておくとよいと思います。

 

【3、ナント勅令の目的】

 ①国内の融和と内戦の終結

 ②商工業者の懐柔

:ナント勅令の目的としては、上記2点ほどをおさえておけばよいと思います。

 

【4、政治状況および宗教問題】

:上記の【2、ナント勅令公布に至るまでの経緯】をご覧いただければおおむねお分かりになるかと思いますが、ポイントだけ下にまとめてみたいと思います。

 

(政治)

 ・フランスはイタリア戦争で神聖ローマ皇帝と対立→ルター派諸侯との結びつき

 ・カトリーヌ=ド=メディシスのユグノーに対する融和姿勢と、ギーズ家に対する警戒

 ・王家、カトリック(ギーズ家)、ユグノー(ナヴァル王アンリ)の三すくみに

 ・周辺のプロテスタント勢力(ドイツのルター派、イングランドなど)やカトリック勢力(スペインなど)の介入 

 

(宗教)

 ・宗教改革の影響を受けたユグノー勢力の拡大

・カトリックvsユグノー(多数派はカトリック)

 ・ブルボン家、コンデ家の改宗(改革派に)

 ・1562年 ギーズ公フランソワによるユグノー虐殺(ヴァシー虐殺)

  →ユグノーのコンデ公ルイ(ブルボン家)による軍事行動

 ・サン=バルテルミの虐殺(1572年)

 ・内乱終結後、ガリカニスムの傾向強まる

 

【解答例】

 ルターの影響を受けてカルヴァンが予定説と蓄財の肯定を説くと、商工業者が共感し北西欧を中心にカルヴァン派の勢力が拡大した。フランスでもユグノーと呼ばれるカルヴァン派が改革派を形成した。フランスの多数派はカトリックで大貴族ギーズ家がその中心であったが、神聖ローマ皇帝と対立するフランスでは改革派への理解もあり、ギーズ家の政敵ブルボン家やコンデ家が改宗すると対立が深まりユグノー戦争へ発展した。カトリーヌ=ド=メディシスは調停を試みたがサン=バルテルミの虐殺が発生し失敗した。ギーズ公アンリと国王アンリ3世が相次いで暗殺されると、ユグノーのナヴァル王がアンリ4世として即位し、ヴァロワ朝に代わりブルボン朝を開いたが、パリ市やスペインに支援された旧教派がユグノーの新王を認めず抵抗したため、アンリ4世はカトリックに改宗し、さらに両派の融和を狙ってユグノーに個人単位の信仰の自由を与えるナントの勅令を発布した。(400字)

 

 解答例の方はできるだけ細かい知識を並べ立てるよりも、当時の政治状況や宗教問題、ユグノー戦争の展開、周辺諸国との関係などがつかめるような文章にしてみました。書き方次第では教科書レベルの知識でも十分に及第点の解答を書くことはできるとおもいますので、「知らない」で終わるのではなく、「16世紀後半の新旧両派の対立となるとフランス以外との関係はどうなるかな…」など頭を使ってみるのもアリなのではないかと思います。

一橋2012 Ⅱ


2問では、モスクワ宣言をもとに、20世紀に設立された「国際的な平和と安全維持のため」の国際機構、すなわち国際連盟と国際連合について、これらが直面した問題を20世紀の国際関係を踏まえて論ぜよというものでした。一橋の第2問は第1問、第3問と比べると多少出題の対象を絞りづらく、当日の受験生は虚を突かれたかもしれません。もっとも、この年以前の数年間は近現代史からの出題が目立っておりましたし、近現代史が出題された場合、第2問ではアメリカが絡む設問が多かったことなども考えると、そこまでは驚かなかったかもしれません。また、この年の受験生は知る由もありませんが、国際機構同士の比較については2015年にECASEANの歴史的役割を比較させる設問が出題されています。

 

【1、設問確認】

・この宣言の名称を答えよ(モスクワ宣言)

・モスクワ宣言が示す目的実現のためにどのような国際機構が設立されたか(二度)

・その国際機構はどのような問題に直面したか

20世紀の国際関係を踏まえよ

・指定語句:総力戦 / 安全保障理事会 / イタリア / 冷戦 / PKO

400字以内

 

【2、モスクワ宣言】

:モスクワ宣言は当時の受験生に問うレベルの設問ではありません。難問です。山川の用語集の方には一応出ています。(旧版では②、新版では①) 詳しく書かれている方の旧版の用語集には以下のように書かれています。

 

1943年、アメリカ・イギリス・ソ連・中国の4カ国外相会談でまとめられた宣言。「国際安全保障機構の早期設立」が表明され、ダンバートン=オークス会議につながった。」

(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版)

 

上記の通り、モスクワ宣言はハル=ノートで知られるアメリカのコーデル=ハル国務長官とソ連外相モロトフ、イギリス外相イーデンの会議で合意された内容に中国大使が同意して出されたもので、国際安全保障機構の早期設立に向けて行動することが表明されており、1941年の大西洋憲章やこれに諸国が同意した1942年の連合国共同宣言の内容をさらに進めたものになっています。ただ、少なくともこの設問が出題された2012年の段階でこのモスクワ宣言を答えられる受験生は圧倒的少数派だと思われますので、史料として出すだけであればともかく、その名称を答えさせるというのは無理があると思います。逆に言えば、ほとんどの受験生は正答を答えられなかったわけで、モスクワ宣言が答えられたか否かは当時の合否にほとんど影響を及ぼさなかったと思われますので、大威張り絶頂で間違えてやれば良いのではないかと思います。書けなかったとしても全く問題はありません。

 

【3、国際連盟・国際連合と問題点 / 20世紀の国際関係】

:設問では、「20世紀には、この宣言で打ち出された目的を実現するための国際機構を作る試みが二度行われている。」とあります。この宣言で打ち出された目的は「国際安全保障機構の早期設立」ですから、この「二度の試み」というのが「国際連盟の設立」と「国際連合の設立」であることは自明です。つまり、「モスクワ宣言」が書けようが書けまいが、設問の要求が国際連盟と国際連合の比較にあることは明らかなので、あとは設問が要求する両機構が直面した問題を、当時の国際関係を踏まえて示してやれば良いかと思います。もっとも、ここで設問が言う「問題」というのが個別の事案なのかそれとも両機構が抱える構造的問題なのかは設問だけからは判断がつきません。ここでは、政治・経済や世界史で国際連盟・国際連合が扱われるときによく指摘される構造上の問題の方に焦点を絞って表にまとめてみたいと思います。

国際連盟と国際連合

 また、20世紀の国際関係を踏まえよという点についても、基本的には国際連盟や国際連合が設立された背景や、両組織の問題点を明らかにしたような事例を踏まえれば良いかと思います。国際連盟については第一次世界大戦(総力戦)を経験したことが国際連盟設立につながったことや、世界恐慌をきっかけに国際協調が崩壊し、日・独・伊などのファシズム国家の暴走を抑えられず、戦争を防げなかったことなどが示せればよいかと思います。国際連合については冷戦構造が構築され米ソ両大国が対立する中で、拒否権の発動が国連の実行力を削いだこと、国際紛争の当事国または利害関係国に五大国が含まれる場合、合意形成が阻まれたことなどを示せばよいと思います。モスクワ宣言を答えることが難しいこと以外は基本的な設問かと思います。

 

【解答例】

 モスクワ宣言。総力戦を経験した列強は国際対立を回避すべく国際連盟を設立し、総会を最高機関とし、英・仏・伊・日を常任理事国としたが、米の不参加や独、ソが当初不参加であったことから指導力に欠けた。また、イタリアのエチオピア侵略に課したように経済制裁は可能であったが実効力に乏しく、全会一致制による決定力不足、軍事制裁権の不保持により日・独・伊などファシズム国家の行動を抑えきれず、第二次世界大戦勃発を防げなかった。その後設立された国際連合は、主要機関に軍事制裁権を持つ安全保障理事会を加えて米・英・仏・ソ・中の五大国が指導し、総会でも多数決制をとるなど組織改善が図られて迅速な意思決定が可能となり、人権問題やPKOに力を発揮した。しかし、大国間の利害が対立すると拒否権発動により機能不全に陥り、冷戦下では朝鮮戦争やベトナム戦争などの地域紛争を防ぐことができず、軍縮や核廃絶を達成できないなど問題も残した。(400字)

 

一橋2012 Ⅲ

:第3問は史料にシンガポールを建設したイギリスの行政官僚ラッフルズの行いについて書かれた『ラッフルズ伝』をもとにイギリスの東南アジアにおける活動と、同時期の清とヨーロッパ諸国の交易体制について問う設問です。

StamfordRaffles

Wikipedia「トーマス=ラッフルズ」より)

 

設問が二つに分けられているため、各200字以内となり、内容的にもそこまで難しい内容が要求されているわけではありません。また、引用されている史料の読み取りも過度に高度だったり、読み取れないと解答することができないという類のものではないので、標準的な問題、むしろ一橋の設問としては平易な部類に入る問題ではないかと思います。ただし、(A.  )に入る地名がシンガポールであるというのは、ほぼ一問一答形式の知識問題になりますので、知らないと書けないでしょう。これが本設問の冒頭に来ているので、配点としてはたいしたことがないかもしれませんが、書けないことで精神的な動揺があり、配点以上にダメージを負うかもしれません。一橋は時々この手の設問を設定しますが、受験生の忍耐力や精神力を試す意図でないのであればやめた方が無難な気がします。

 

問1

【1、設問確認】

・文中の(A.  )に入る地名を答えよ。[解答はシンガポール]

・ラッフルズの思想(シンガポールにおける交易の自由がアジアの物流を一変させるという考え)との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治・経済的活動の展開を述べよ

 

【2、ラッフルズの思想】

:「ラッフルズの思想との対比において」と設問が要求しておりますので、まずはラッフルズがどのようなことを考えているかをしっかりと把握する必要があります。一言で示してしまえば、設問が言うように「(A.   )[シンガポール]における交易の自由がアジアの物流を一変させる」という考えなのですが、これだけではその真意が十分につかめませんし、何より(A.   )にシンガポールを入れられない受験生もいるかと思いますので、そうした場合には史料の読み取りや、もともと持っている世界史の知識が大切になります。

 

(史料から読み取れる内容[地名などは原文ママ、カッコ内は筆者による]

・ラッフルズがシンガポールを建設して以来、200人に満たなかった人口は1万人を超え、その多くはシナ人(中国人)である

・シンガポールが重要な商業港となることは、イギリスにシャム・カムボヂャ・コーチシナ(タイ、カンボジア、ベトナム南部)その他とともにシナおよび日本に対する支配を与える。

・イギリスはインドよりも安く綿製品を生産できる

・(貿易の障害さえなければ)シナ人がイギリス製綿製品を買わない理由は見いだせない。

・イギリスにおける東インド会社、シナにおける行(ホン)商人(公行)の独占さえなければ公正な競争が可能となる

・シンガポールを自由港とすることでヨーロッパ・アジア・中国を結ぶ集積港となる(中国各地の総督は秘密裏に外国貿易に従事しているため)

 

上記をまとめると、ラッフルズはシンガポールを自由港とすることでイギリス綿製品の輸出拡大と、アジア諸地域への影響力拡大が可能になると考えており、その障害となっているのは東インド会社の中国貿易独占権と中国における公行による貿易独占だと考えています。こうした考え方が、当時イギリスで台頭しつつあった産業資本家の考え方や、自由貿易要求と同じ路線のものであることには注意を払う必要があります。産業資本家は、貴族・地主・東インド会社などが有していた諸特権は自由な経済活動を阻害し、ひいてはイギリスの国益を損なうものとして批判しました。

産業資本家と貴族地主東インド会社

このような背景から、1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止され、1833年には中国貿易独占権廃止と商業活動の停止が決まります。また、1846年には穀物法が廃止され、1849年の航海法廃止により、イギリスでは自由貿易体制が確立していきます。(このあたりの話は、以前早稲田大学法学部の2017年論述などでも少しお話をしました。)本史料はラッフルズが1820年代初頭にのこしたものとされておりますので、まさにイギリスでこうした自由貿易の利益が説かれていたころのものでした。

 

【3、イギリスの東南アジア支配】

:さて、「シンガポールを自由港にすること(自由貿易)こそがイギリスのアジア支配を可能にする」というラッフルズの思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べよというのが設問要求ですので、ラッフルズよりも後の時代にイギリスがどのような政治経済支配を東南アジアで展開したかを確認する必要があります。大枠でいえば、イギリスの東南アジア支配はラッフルズが思い描いたような形では展開しませんでした。東南アジアの諸地域は、「自由貿易の拠点」としてではなく、むしろ「原材料の供給地」として植民地経営がなされていくことになります。

 

(マレー半島)

・錫採掘(河スズ:河床に沈着)

:華僑が華人労働者(苦力)から安く買いたたく

・ゴムプランテーション(1895~)

20世紀に入り自動車のタイヤ需要から拡大、印僑

<展開>

1786 ペナン獲得

1819 シンガポール獲得

   :ラッフルズがジョホール王の許可で商館建設

1824 英蘭協定

    :マレー半島がイギリスの勢力圏に(オランダはスマトラ島)

1826 海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)成立→1867 直轄化

1895 マレー連合州成立(1870年代から介入していたマレー人の4小国を保護国化)

19世紀末 その他の地域に圧力、実質的支配下に

→英領マラヤの成立(直轄植民地、マレー連合州、その他の地域)

 

(ボルネオ島)

<展開>

 1841 ジェームズ=ブルックがサラワクの藩王に任ぜられる(1846 ブルネイから独立)

 1888 サラワク王国がイギリスの保護領に(北ボルネオ[サバ]も)

 

(ビルマ)

・木材、石油などの天然資源

・穀倉地帯(米のプランテーション)

<展開>

イギリス=ビルマ戦争(18241826185218851886

:コンバウン朝(アラウンパヤー朝)の滅亡

1886 インド帝国の一州に編入(イギリス領ビルマ)

 

【4、ラッフルズの思想と現実のイギリス支配の対比】

:すでに3でも述べましたが、ラッフルズの思想と現実のイギリス支配を対比させると以下のようになります。

 

(ラッフルズ)

:古典派経済学的な自由競争・自由貿易の考えに基づいてシンガポールを自由港(関税をとらない)とし、ヨーロッパとアジアを結ぶ集積港とする

(イギリスの東南アジア支配)

:典型的な植民地経営(原料供給地、市場としての活用)

 

【解答例】

シンガポール。ラッフルズはシンガポールを自由港とし、古典派経済学と同様に自由競争と自由貿易を保障して貿易を活性化させ、ヨーロッパとアジアを結ぶ集積港に発展できると考えたが、イギリスはシンガポール、ペナン、マラッカを海峡植民地とし、マレー連合州と合わせて英領マラヤを形成、ゴムのプランテーションや錫鉱山を華僑と印僑を使って経営し、ビルマやボルネオ北部を含む東南アジアを原料供給化し植民地経営を展開した。(200字)

 

問2

【1、設問確認】

・この時期(1820年代初頭の)ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明せよ。

・その後の同国の交易体制の変化について述べよ。

 

:問1で自由貿易や公行による貿易独占などが問題とされていることから考えても、ここでいう清朝の交易体制とは乾隆帝以降の外国貿易の広州1港限定であると考えて問題はないでしょう。となれば、この清の貿易制限がどのような変化を遂げたのかを示せばよいということになります。頻出の基本問題です。

 

【2、(1820年代初頭の)清朝の対外交易体制】

:これについては、基本的には以下の2点を抑えていれば良いと思います。

 

・広州1港に対外貿易を限定(1757、乾隆帝の時期から)

・公行による対外貿易独占

 

ただし、近年の『詳説世界史研究』などの叙述を見ると、上記の2点以上に当時ヨーロッパがどのように貿易を展開していたのかという実態面の記述や、広州におけるヨーロッパ船が「互市の国」として従来の朝貢・冊封体制の枠をはみ出した性質を持っていた点などを指摘する記述が随所に見られるようになってきました。これは、従来の「典礼問題→広州一港限定→イギリスの自由貿易要求」というやや直線的な叙述と比べると、より当時の状況がわかる内容となっています。そうした意味で、現時点(2022年時点)での受験生は、清と諸外国との貿易をより多角的に広い視野で把握する必要性が増してきているのかもしれません。雰囲気をつかむために、『詳説世界史研究』で広州貿易について書かれた部分を旧版・新版双方を引用して比較してみたいと思います。(引用個所はどちらも「清代の社会経済と文化」という節からになります。)

 

<旧版>

1644年の明滅亡後に北京に入り中国支配を進める清は、台湾に根拠地を移して反清運動を続ける鄭成功に対し、中国船の渡航を厳禁する政策をとり(遷界令)、大陸との交通を断ち孤立させようとした。この政策は鄭氏一族を滅ぼした1684年に解除された。さらに85年には広東・福建などに海関(税関)を設け、海外貿易を統制した。当初の貿易相手国は、すでに明末から来航していたポルトガル・スペイン、さらにその後に来航してきたオランダ・イギリスなどであった。イギリスは18世紀になるとポルトガル・スペインなどを圧倒して、中国貿易を独占した。そして東インド会社をとおして中国の生糸や陶磁器・茶などを輸入したが、その代価は銀で支払われ、その額は巨額にのぼった。こため銀がいっそう中国内に流入した。

乾隆帝は、康煕帝時代の典礼問題などもあって、1757年ヨーロッパ人との貿易を広州(広東)の1港に限定し、藩属国の朝貢貿易と同じように品目。数量・来航数などを一方的に制限し、さらに公行と呼ばれる少数の特許商人に貿易管理のいっさいを任せた。こうした制限された交易や公行による貿易の独占に対してイギリスは、18世紀末から19世紀前期にかけてマカートニー(17371806)やアマースト(17731857)を派遣して、制限貿易の撤廃を求めたが失敗し、こうした体制はアヘン戦争後の南京条約(1842)まで続けられた。

(木下康彦ほか編『改訂版詳説世界史研究』山川出版社、2008年版、pp.259-260

 

<新版>

清朝の統治のもと、中国では、辺境での戦争や反乱を除き、17世紀末から100年ほどの間、安定した平和な時期が続いた。対外貿易についてみると、清朝統治下では、鄭氏勢力の制圧をめざした初期の政策を除いて貿易の禁止はおこなわれず、中国船が日本や東南アジアに出かけたり、東南アジアやヨーロッパの船が中国に来航したりして、民間の交易が盛んにおこなわれた。清朝の規定では、海外渡航してそのまま相手国に住みつくことは許されていなかったが、東南アジアとの貿易をおこなう商人たちのなかには、禁令を犯して東南アジアに住みつき、農村と国際市場を結ぶ商業網を握って経済力を蓄える人々もでてきた。

18世紀の半ばには、それまで広州に来航していたイギリス船がより条件のよい貿易港を求めて北上して寧波にいたる事件が起こり、それをきっかけに清朝は治安の維持を理由としてヨーロッパ船の来航を広州のみに限定した。また広東十三行(公行)という特定の商人を通じてのみ貿易が許され、ヨーロッパ人の行動にも厳しい制限が加えられた。このような制度はヨーロッパ人からは「カントン=システム」とよばれ、評判の悪いものであった。しかし、ヨーロッパ船の貿易量は、来航地が広州に限定されてからも増加しつづけ、19世紀の初めにいたるまで、中国から輸出される茶・生糸・陶磁器などの対価として海外から大量の銀が年々流入したのである。

(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、pp.238

 

 10年でこんなに変わるものか、と正直驚かされます。先生泣かせですねw

 

【3、その後の交易体制の変化】

:では、こうした清朝の交易体制はどのように変化していったのかということですが、基本的には南京条約(1842)による実質的な開国までを見ておけば良いと思います。本設問では書く必要はないかと思いますが、視点としてはその後のアロー戦争(1856-60)と北京条約(1860)での開港地の増加と中国人の海外渡航の解禁などまで見ておくとよいでしょう。変化の過程としては概ね、以下のようなものになります。

 

・イギリスの自由貿易要求(マカートニー、アマーストなどの派遣)

・アヘン戦争(18401842)と南京条約(1842

5港開港、公行の廃止、清の関税自主権の放棄

・五港通商章程(1843

:清が領事裁判権の承認

・虎門寨追加条約(1843

:清が片務的最恵国待遇を承認

・望厦条約[対アメリカ]・黄埔条約[対フランス]1844

 

【解答例】

乾隆帝の時代以降、清は広州を唯一の対ヨーロッパ貿易港とし、公行に独占させていた。自由貿易要求に失敗したイギリス商人が密輸したアヘンの蔓延と林則徐による取り締まりからアヘン戦争が勃発し、南京条約が締結されると清は5港開港、公行の廃止、関税自主権の放棄などを承認し、虎門寨追加条約で片務的最恵国待遇を認めるなど不平等な状態での自由貿易を強いられ、望厦条約と黄埔条約で米や仏にも同様の条件を認めて開国した。(200字)