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カテゴリ: 世界史Q&A

世界史を学び始めると、必ず登場するのが「時代区分」です。「原始」、「古代」、「中世」、「近世」、「近代」、「現代」といった区分は、歴史の流れを整理して理解するための目安として教科書などに当たり前のように登場します。

ですが、日本史の「奈良時代」、「平安時代」、「鎌倉時代」といった比較的境界が明確な(実際にはそんなに単純なものではないのですが)区分と異なり、世界史の時代区分は明確な境界になる時点がなかったり、地域差などもあったりして、「どこからどこまでが近世」で、「どこからどこまでが近代」なのかなどがつかみづらいということがあるようです。そのため、通史の解説を始めてしばらくたつと「中世ってどこからどこまでですか?」などの質問がかなり寄せられます。そこで、ここでは時代区分がどのような基準でされているかという、だいたいの見取り図を示してみようかなと思います。

もっとも、歴史の区切り方にはさまざまな学説があります。国や地域によって発展の過程が異なるため、完全に同じ時期で区切れるわけではありませんし、ある区切りが絶対的な基準であるわけでもありません。それでも、社会の仕組みの変化に注目すると、おおよその共通点を見つけることができますので、ここではそうした大きな枠組みを示しながら、できるだけ具体的な事例・時代と結びつけてお話していきたいと思います。(あくまでも大きな枠組みですので、一部単純化などがされていますが、ここでは学術的な厳密さよりもある程度の分かりやすさを優先させたいと思います。)

【原始】
(特徴)国家や階級がなく、狩猟・採集を中心とする共同体社会が形成された時代

「原始」とは、国家や身分制度が成立する以前の社会を指します。人々は主に狩猟や採集によって食料を得て、小規模な集団で生活していました。

この時代の特徴は以下のようなものです。

・国家が存在しない
・身分制度がない
・狩猟・採集中心の生活
・小規模な共同体で生活

各地域における具体的な例を示すのであれば、日本なら旧石器時代や縄文時代、中国なら仰韶文化や竜山文化などの殷成立以前の世界、ヨーロッパなら旧石器時代、新石器時代、巨石文化などが該当するのではないかと思います。

もっとも、時代区分については、日本史・東洋史・西洋史で区分の仕方が微妙に異なります。そもそも、原始・古代・中世・近世・近代・現代という時代区分自体が、もともとはヨーロッパ史の把握のためにつくられた時代区分ですので、この時代区分を東洋史や日本史の時代区分にそのまま当てはめられるわけでもありません。

もっと言ってしまうと、たとえば東洋史(中国を含み、朝鮮・日本・東南アジア・インド・イスラームの歴史など)では、地域ごとに時代区分が異なり、共通した時代区分はありません。(例:中国史であれば先史・古代国家形成期[殷・周]、秦漢時代、魏晋南北朝時代、隋唐時代、宋元時代、明清時代、近現代など / インド史であれば古代[インダス文明〜ヴァルダナ朝期]、中世[イスラームの浸透〜ムガル帝国ごろ]、近代[イギリス支配以降]、現代[独立後]など)

ですから、ここからお示しする例は、日本史や中国史(東洋史)については、あくまでも「強いて区分とするとすれば」というものを示したもので、「中世」とした場合でも見方によっては「古代」や「近世」に分類されることもあるくらいの、ある程度解釈に幅を持たせたものだと捉えていただくのが良いかと思います。

【古代】
(特徴)農耕に基づく国家が成立し、王権や身分秩序が形成された時代

古代になると、農業の発展を背景として国家が成立します。王や皇帝を中心とした政治が行われ、社会には身分制度が生まれます。

古代社会の特徴は次の通りです。

・国家が成立する
・王権や皇帝権力が存在
・身分制度が形成される(奴隷制なども)

各地域における具体的な例を示すのであれば、日本なら弥生時代後期~平安時代中期ごろまで、中国は諸説ありますが漢の滅亡後しばらくまで、ヨーロッパでは古代ギリシアや古代ローマなどが該当するのではないでしょうか。世界史の教科書などでは、西ローマ帝国の滅亡(476年)が、古代から中世への転換点とされることが多いように思います。

【中世】
(特徴)土地と主従関係を基礎に複層的・分権的な支配構造が広がった時代

中世という時代概念は、そもそもがヨーロッパ史において「古代」と「近代」の中間の時代を示すために生み出された語です。この時代は、(西)ヨーロッパ史については土地の支配関係と主従関係を基礎とした社会(封建社会)によって特徴づけられる時代です。また、王の権力は必ずしも強くなく、地方の有力者が大きな力を持つことも多く、さらに国内の権力関係は錯綜していて、たとえば「ローマ教皇」のような国の枠組みをこえて影響力を行使する存在なども見られます。

この時代の特徴は次の通りです。

• フューダリズム(封建制度)など土地を媒介とした主従関係が成立
• 基本的には分権的な支配構造
• 宗教の影響力が大きい

ただし、こうした特徴は基本的には西ヨーロッパの状況をつかむためのもので、地域によっては当てはまりません。たとえば、ビザンツ帝国はある時点までは集権的ですし、イスラーム世界や中国・インドなどもその在り方は多様で、必ずしもヨーロッパ的なフューダリズムが当てはまる社会ではありません。

一方で、地域ごとに形は異なっても、「土地を媒介とした支配関係」や「分権的な支配構造」など、一部では共通点も見出せることがあるため、そこからヨーロッパではない地域の歴史を「中世」としてとらえる場合もあります。これは、日本史でいえば平安時代後期~室町・戦国時代の頃にあたります。中国史については、「中世」という区分が成立するかはやや微妙なところですが、後述の通り唐末から宋代にかけてが近世へ変化する時期ととらえることが多いので、その前の魏晋南北朝期から唐代のあたりを「中世的移行期」または「古代後期」としてとらえているように思います。

参考までに、いくつかの代表的な世界史教科書を見ると、秦・漢から唐末までを一つの章のなかにまとめ、宋代以降を別の章にまとめるという形をとっているものが多いかと思いますので、唐代から宋代へ変わる時期が一つの区分と考えてよいかと思います。基本的には内藤湖南の「唐宋変革論」がベースになっていますが、近年は明確な断絶・変革があったというよりは唐末〜宋初を連続的変化として捉え、漸進的に構造が変化していったととらえる方が理解しやすいかと思います。

(西)ヨーロッパで言えば、中世は西ローマ帝国の滅亡以降のフランク王国による支配拡大や、ローマカトリック教会の組織化、封建制の成立によって徐々に形成され、15世紀末~16世紀にかけての「ルネサンス(後期)・大航海時代・宗教改革」あたりが中世と近世の境界線だと考えてよいかと思います。

【近世】
(特徴)中央集権的な国家が成立し、身分秩序のもとで商品経済が発展した時代

近世になると、王権が強まり、中央集権国家が成立します。また、商業や貨幣経済が発展し、都市や商人の力が強くなります。

この時代の主な特徴は次の通りです。

・中央集権国家の成立
・身分制度の維持
・商品経済の発展
・海外交易の拡大

中世の社会の枠組みを残しながらも、経済や国家、社会の仕組みが大きく変化していく時代です。日本史で言えば、安土桃山時代~江戸時代、中国史で言えば宋代~清末あたりではないでしょうか。もっとも、中国の場合、宋代と明・清の時代ではかなり大きな差がありますので、宋代を近世の始まりとしつつ、明・清は近世後期ともいうべき別の社会へと段階的に変わっているととらえるべきかと思います。ヨーロッパで言えば、主に主権国家が形成される絶対王政期が該当するかと思いますが、市民革命の時期が違ったり、東欧では啓蒙専制君主が出現したり農奴支配が西欧と比べて強いなど、国や地域によってかなりの差があります。何かのきっかけで君主の権力に大きな制限が課されたり、市民の発言力が増したり、農奴の解放が進んだりしてくる時期が近世の終わり(近代の始まり)と考えると地域ごとの近世・近代を把握しやすいのではないかと思います。

【近代】
(特徴) 市民革命と産業革命を背景に、資本主義と国民国家が成立した時代

近代は、市民革命と産業革命を背景として成立した社会です。身分制度が崩れ、資本主義経済と国民国家が広がります。

この時代の主な特徴は次のようなものです。

・市民革命の発生
・産業革命(生産の近代化)
・資本主義経済の成立
・国民国家の形成

先に示した通り、君主などのもとに主権が集まり主権国家が形成されるとともに、君主大権が増大し、常備軍や官僚制の整備による地方貴族の廷臣化などが進んだ社会を「近世」だとすれば、君主の権力に大きな制限が課されたり、市民や農奴の発言力が増したり、生産の機械化や自動化(近代化)による新たな社会経済体制(資本主義経済)が成立する時期を「近代」と考えるべきかと思います。

このあたり、日本史では非常に分かりやすく、江戸幕府の崩壊と明治維新が日本の近代化の始まりと考えてよいでしょう。ある程度日本の近代の始まりが分かりやすいのは、海外との交渉が制限されていた社会から外圧により急激な変化を遂げたことや、当時の日本人が「西洋」を手本に「近代化」を遂げようと考えて活動していたことなどが影響しているのかもしれません。もっとも、日本でも産業面での近代化は急速に進みますが、こうした近代化は「市民革命」を通したものではなく、国家主導の「上からの近代化」でした。また、憲法の制定や議会の設置に至るまでには自由民権運動などを経ておよそ20年を要しますので、分野によって「近代化」の程度には違いがありますし、必ずしもヨーロッパ的な「市民革命」と「産業革命」によって近代が成立したわけではない点には注意が必要です。同様に、中国で言えば近代は清末の諸改革(洋務運動~光緒新政)あたりから始まって進んでいきますが、この間も皇帝による専制支配という前近代的な要素は残されています。その後、辛亥革命や中華民国の成立などを通して漸進的に近代化が進んだと考えるべきでしょう。

ヨーロッパについては、「市民革命」と「産業革命」が一つの指標となります。イギリスの産業革命、アメリカ独立革命、フランス革命、ドイツやイタリアの統一などがヨーロッパにおける近代の始まりととらえてよいかと思います。もっとも、こちらもやはり国や分野によっては前近代的な要素を残していた場合があることには注意が必要です。たとえば、イギリスについては2度の革命(ピューリタン革命と名誉革命)により、国王にかわって議会が政治の主導権を握るに至りますが、当時の国王が政治的に無力だったかといえば決してそんなことはなく、特に外交政策や貴族院に対しては非常に大きな力を持っていました。また、産業革命も当時は始まっていませんし、社会構造も革命以前と以後でそこまで大きな差がなかったという指摘もあります。

このように、近世から近代へといたるのは、一夜にして急激に変わるのではなく、様々な変化が徐々に起こることを通してのことであることは理解しておくべきです。ただ、何が「近世的」で、何が「近代的」であるのかという要素を把握することで、その国や地域がどの程度の段階にあるのかということをイメージすることは可能かと思います。

【現代】
(特徴) 民主主義と高度な資本主義経済を基盤に、国際的な相互依存が強まった時代

現代は、基本的には20世紀以降の社会を指します。民主主義が広がり、経済は高度な資本主義の段階に入ります。また、国際的な結びつきも強くなります。ただし、社会主義国家や権威主義国家の成立に見られるように、資本主義と民主主義が絶対的な条件ではない点には注意が必要です。ある意味、今日本で教えられている現代史というのは冷戦期の西側諸国的な視点で形成された現代史という側面が強いのかもしれません。

この時代の特徴は次の通りです。

・民主主義の普及
・世界経済の一体化
・国際機関の発展
・情報化社会

ただし、「20世紀以降」といってもどの段階から「現代」とするかは国や視点によって異なります。高校の歴史では、世界史・日本史ともに第二次世界大戦以降を現代史ととらえる視点が多いように思います。たとえば、日本史においては第二次世界大戦後のいわゆる「戦後史」を現代ととらえるのが一般的かと思います。これは、日本国憲法の成立により国家体制に大きな変革があったことや、高度経済成長を通した社会経済の変化などからこのような区分になっています。同様に考えれば、中国についても中華人民共和国成立以降の歴史を現代史ととらえるのが普通かと思います。ヨーロッパについても第二次世界大戦後の世界を現代史ととらえてよいかと思います。

もっとも、現代史というのは「現在に直接つながる時代を対象とする歴史」、または「現在の世界の仕組み(政治・経済・社会)の基盤が形成された時代」のことですから、21世紀に入って四半世紀が経過した今では、「現代史」に対する捉え方も今後変化してくるかもしれません。たとえば、ヨーロッパ史の分野では1989年の東欧革命以前を「近代」、それ以降を「現代」ととらえる見方が出てきています。また、日本においても、たとえば私が高校生の頃には冷戦史は紛れもない「現代史」でしたが、2026年の今の時代において冷戦期が「現代」かと問われれば、別の見方も存在するかもしれません。

【おわりに】
世界史の時代区分をおおまかに整理すると以下のようになります。(これまでにご説明してきた通り、かなり西ヨーロッパ史中心的な視点でのまとめとなっている点には注意してください。)
 時代区分とその特徴
世界史の時代区分は、出来事そのものではなく「社会の仕組み」に注目して作られた分類です。そのため、「分かりにくい」と感じられることも多いようですが、日本史の伝統的な時代区分のように、出来事(遷都・新しい政治体制の成立など)を時代区分の目印として使う場合とは異なり、時代を特徴づけるいくつかの要素があるのだと考えてあらためて見直すと、それぞれの時代の違いがどのようなものだったかということがより立体的に見えてくるのではないかと思います。また、こうした要素や枠組みに対する理解を深めておくと、世界史だけでなく日本史を学ぶときにも、社会の変化やそれぞれの出来事を大きな流れの中で位置づけやすくなるのではないでしょうか。

世界史を学ぶ最初のステップ、または世界史をある程度学習した後の発展的なステップとして、今回の「時代区分」の話が何かのお役に立てば良いなと思います。

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多分、受験に出る知識ではないのですが、勉強をしっかりしている人ほど気になるみたいで、「先生、何でパリ条約でいきなりスペインがしゃしゃり出てくるんですか?」とか「スペインってブルボン家だからフランス寄りのはずなのに何でミシシッピ以西のルイジアナをフランスからぶんどってるんですか?」などの質問が時々寄せられます。(年に1~2回でしょうか。)

そんなわけで、今回のテーマは「なぜパリ条約(1763年)でミシシッピ以西のルイジアナがスペイン領になるのか」です。ぶっちゃけ、多分受験には出ませんがw(2度言ったw) いやいや、こういう疑問を持つことって大事ですよね。それに、何か気持ち悪いって気持ちも分かります。

一言で言うなら、それは「事前にフランスがスペインに『ルイジアナをあげるね』って約束していたから」です。フランスのショワズール公爵とスペインのグリマルディ侯爵(後に公爵)との間に1762年に結ばれたフォンテーヌブロー条約において、フランスはスペインに対してミシシッピ川流域のルイジアナ全域(ミシシッピ以東も含む)を割譲するという秘密条約を締結します。

なぜ、そんな条約を締結したのかということですが、北米大陸で展開されていたフレンチ=インディアン戦争は主にイギリスとフランスの間の戦争で、スペインは距離を置いていました。ところが、フランスは同じブルボン家であったスペインを同盟国として同戦争にある意味で引きずり込み、1762年にイギリスからの宣戦布告を受けたスペインは同年にこの戦争に参戦します。しかし、ニューファンドランドや西インド諸島での戦いで敗北し、ヨーロッパ大陸でもスペイン東部に敵の侵入を許すなど、敗北が必至の状況に陥ると、フランスはイギリスとの講和を模索します。

ですが、戦局が不利な状況での講和は、フランス・スペインともにイギリスからかなり厳しい条件が提示されることが予想されました。(実際、スペインが当時北米に領有していたフロリダをはじめとするミシシッピ川以東の領土はパリ条約で全てイギリス側に割譲されます。)こうした状況下でスペインに講和を納得させるためのいわば補償として、フランスはスペインに対してルイジアナを割譲することを約束したのです。当時、この約束は交戦国であるイギリス側にはふせられていました。

その後、パリ条約が締結されると、ミシシッピ以東のルイジアナはイギリス側に割譲されることとなりましたが、フォンテーヌブロー条約によりミシシッピ以西のルイジアナ領有が決まっていて大損はこかなかったスペインは、これを黙認します。結果的に、パリ条約以降の北米植民地は、ミシシッピ以東とカナダをイギリスが、ミシシッピ以西をスペインが領有するということで落ち着き、北米植民地からフランス勢力は駆逐されることになりました。
(1763年 パリ条約以前の北米大陸)
1763_パリ条約以前_地名入

(1763年 パリ条約以降の北米大陸)
1763_パリ条約後_地名入
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先日、動画授業でご紹介した際に「あー、これは普通に勉強していると分かりづらいかもしれないなぁ」と思ったものに「エルベ川以東」とはどのあたりを指すのかということがありましたので、少しだけお話ししてみたいと思います。

エルベ川については以前一橋の2013年過去問の解説をした際にご紹介しまして、ユトランド半島の西側の付け根から袈裟懸けにズバーッと切り下げたみたいな流れになっているのがエルベ川だというお話をいたしました。そこでもご紹介しましたが、高校世界史でエルベ川が出てくる場合には大体「エルベ川以東」という表現で、以下のような話と関連付けて出てくることが多いかと思います。
① 東方植民
② ドイツ騎士団
③ グーツヘルシャフト

ただ、この「エルベ川以東」っていうのが地図上でどのあたりで、そこにはどういったものがどういう配置で存在しているのかっていうのが具体的にイメージできるかっていうと、これが案外難しいんですね。少なくとも、高校生の頃の自分はいまいち把握できていなかった気がします。(今と違って全部本で調べないといかんかったのですよ…。) そこで、エルベ川以東を地図で示すとこんな感じになるかと思います。
世界史でおさえるべき地理_2_イタリア - コピー
図中の、ユトランド半島の付け根から右下に向かって斜めに入っている水色のラインがだいたいのエルベ川の流れですね。上流(水色のライン右下)の先端部のあたりがちょうどチェコの北部にかかるようなイメージになります。ちなみに、エルベ川の上流の支流がチェコのプラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ川)です。
上の図をご覧いただくと、エルベ川以東には「ブランデンブルク辺境伯領(選帝侯領)」とか、「ドイツ騎士団領(16世紀以降はプロイセン公国)」といった、東方植民の際に登場する土地がしっかりと入っているのが見て取れるかと思います。このようにして見ると、普通は「プロイセンといえばドイツ」というイメージがあるかなと思うのですが、実際にドイツ騎士団領ができたころの位置はドイツではなくてかなりポーランドなんだなぁっていうのがお分かりいただけるかと思います。プロイセン公国がブランデンブルクと同君連合を形成したり、フリードリヒ2世のときにシュレジェンをぶんどったりしているうちにだんだんドイツ寄りに拡大してくるイメージなんですね。

ちなみに、エルベ川周辺にはほかにも世界史出てくるわりと重要な土地があったりします。たとえば、ウェストファリア条約(1648年)でスウェーデンに割譲されることでスウェーデンがバルト帝国を築くきっかけとなる西ポンメルンはエルベ川以東ですし、上の地図上にはありませんが同じくブレーメンはエルベ川の下流からやや西へ行ったあたりにあります。また、ハンザ同盟で良く知られるハンブルクはエルベ川河口の街ですし、盟主のリューベックはエルベ川より少し東側に行ったあたりにある街ですね。(リューベックがエルベ川以東の街であるという情報はたまに私大の問題などで問われたりします。) リューベック、ハンブルク、ブレーメンが東側から斜めに並んでいる感じですね。

話は変わりますが、このエルベ川の流域は「ドレスデン・エルベ渓谷」として世界遺産に登録されていた風光明媚な土地なのですが、ドレスデン市街に新しい橋ができたりして景観が損なわれたという理由で、同地域は2009年に世界遺産登録を抹消されてしまったそうです…。ちょうど橋が作られる頃の2008年ごろにベルリン→ドレスデン→プラハと電車旅を楽しんだことがありましたが、綺麗なところでしたけどねぇ。
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オクタウィアヌスの時代から始まる元首政について、東京書籍版「世界史B」と山川出版社版の教科書・参考書を見比べると、本当にちょっとした表現があるかないかということだけで「わかりにくい」、「わかりやすい」に差が出るんだなぁということに気づきます。元首政というのはやや特殊な政治形態なので、どうも高校生にはなじみにくく、理解しにくいようで、特に「元老院を尊重するってどういうことか」というのが分かりにくいようです。ローマの前期帝政における元首政(プリンキパトゥス)と後期帝政における専制君主政(ドミナトゥス)の違いについて説明する際、よく「前者は共和政の伝統や元老院を尊重したけれども後者は元老院を無視した。」というような説明がされることもあり、「元首政=共和政の伝統や元老院の尊重」という構図は出来上がるのですが、これだけだと元首政とは何ぞやということが分かりづらいのですね。東京書籍版「世界史B」の元首政に関する説明は、そうした意味で十分なものとは言えません。 

27年に元老院からアウグストゥス(尊厳なるもの)の称号を贈られたオクタウィアヌスは、共和政の伝統と元老院の威光を尊重しながらも、万人にまさる権威をもつ第一人者(プリンケプス)として統治する、事実上の皇帝となった。ここに帝政(元首政)がはじまったのである。(東京書籍「世界史B」、2016年版、p.51

 ここでは、たしかに元老院の尊重や権威の利用といった元首政の特徴は述べられているのものの、形式上は共和政の枠内で各種要職を兼任することによる独裁権力を掌握するという、権力行使の実態面については全く触れられておりません。さすがに「えらいよね~、すごいよね~」だけで政治権力が動くはずがないということには高校生でも気づきますので、「元老院を尊重するって何じゃい」という疑問が出てきても仕方ない記述になっています。ちなみに、専制君主政が出てくる箇所をはじめ、ローマ史について記載のある個所をひと通り見てみましたが、これ以外に元首政の仕組みについては触れられておりませんでした。一方、山川版の教科書は字数こそほとんど差がないものの、ある一文を入れることで劇的にその内容が分かりやすくなっていました。 

 権力の頂点にたったオクタウィアヌスは、前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。ここから帝政時代が始まった。彼はカエサルとは違って元老院など共和政の制度を尊重し、市民の中の第一人者(プリンケプス)と自称した。しかし実際にはほとんどすべての要職を兼任し、全政治権力を手中におさめていた。この政治を元首政(プリンキパトゥス)といい、事実上の皇帝独裁であった。(山川出版社「詳説世界史B改訂版」、2016年版、p.44

この赤字の部分が肝ですね。これがあるかないかで読み手の理解の進み方がずいぶん違ってくるのではないかと思います。同じく山川出版社の「新世界史B」ではこのあたりのところがより詳しく出ておりますので、さらに分かりやすくなっています。

…オクタウィアヌスは、戦時に保有していた軍指揮権などを国家に返還したが、前27年に元老院からアウグストゥス(「尊厳なる者」の意)の称号を与えられ、数多くの属州の統治もゆだねられた。アウグストゥスは、属州の防衛と治安維持のために再びローマの軍隊を指揮下に入れ、まもなくコンスルや護民官の職権も手に入れて、国家宗教の再興神官ともなった。彼はローマ国家の伝統の回復と共和政の尊重を表明し、元老院の「第一人者」(プリンケプス)として振る舞ったため、形式上は共和政が継続しているものの、実際には彼一人が国政上の権限のほとんどすべてを手にしており、「皇帝」の名に値する独裁者であった。(山川出版社「新世界史B改訂版」、2017年版、pp.42-43

まぁ、これだけ書けば分かりやすくなるのは当たり前なのですが、やはり上に示した山川の「詳説世界史B」の赤字部分はかなり大事な要素なんだなぁということが分かります。もっとも、これは別に東京書籍版はダメで、山川版が良いという単純な話ではありません。東京書籍版にも良いところはたくさんあります。それぞれの教科書に一長一短があり、元首政の説明では山川版の方が分かりやすいなぁというだけです。ちなみに、教科書ではなく参考書ですが、『詳説世界史研究』には、アウグストゥスの権力と権威について以下の事柄が示されています。(木村靖ニほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.58

 

【制度上の権力】

 インペラトル(最高軍司令官)

 属州総督命令権

 執政官

 護民官職権

 戸口調査官職権?(人口調査を行う権限)

 最高神官

元老院主席

元首(プリンケプス・最高裁判権を持つ)

【名誉・権威の称号】

 最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス

【栄誉の象徴】

 アウグストゥスの4つの徳を讃える黄金の楯、月桂樹の冠、カシワの葉の飾りが邸宅におかれる。(いずれも共和政期の国家に貢献した人物に与えられた名誉の飾り。)

 

 ほんまに片っ端からっていう感じがよくわかりますね。制度の利用の仕方や解釈の仕方次第で独裁権力を確保できるということはいつの時代もあまり変わりません。ここでは元首政について教科書内での表現の差についてお話ししましたが、元首政と専制君主政について専門書まで行かなくても、もうちょっとだけ詳しい内容を見たいという場合には桜井万里子、本村凌ニ『世界の歴史5:ギリシアとローマ』中央公論社、1997年(pp.322-325)や同じく本村凌ニ『興亡の世界史04:地中海世界とローマ帝国』講談社、2007年(pp.224-227306-311)あたりは、たいていの図書館に置いてあるでしょうから読み物として読みやすい気がします。いずれにしても、何かを伝えようとする場合に大切な要素は何かということをあらためて考えさせられました。

 

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【2024.2.16に記事の下段に追記を行いました】

昨日、ブログをお読みいただいている方からエンコミエンダ制とアシエンダ制の区別についてご質問をいただいたので、それについて書いてみたいと思います。こちらの区別は正直専門外ですので、私自身もよく把握していないのですが、とりあえずは高校世界史で紹介されている定義と、私の方で「こういうものかな?」と理解している事柄について書いた上で、「この辺をおさえておけばOK」という点をまとめてみたいと思います。分かりやすくまとめるのが主眼ですので、私自身がイメージしていることについては一部不正確な部分があるかもしれませんが、そのあたりをご理解の上でお読みください。

 

まず、すでにご存じかとは存じますが、エンコミエンダ制とアシエンダ制の高校世界史における基本的な定義は以下のようになっています。

 

エンコミエンダ制

:スペイン王室の認可を受けて、ラテンアメリカに入植したスペイン人植民者が、一定地域の先住民に対するキリスト教化の義務を負う一方で、同地の土地の利用や住民を労働力として使役する権利が認められた制度。

アシエンダ制

:スペイン人大土地所有者が現地人を債務奴隷として労働力とする大農園経営の形態。その地主であり経営者であるスペイン人入植者は現地のインディオの債務者を債務奴隷として家父長的に支配しながら経営した。「世界史の窓」、アシエンダ制より)

 

エンコミエンダの説明は私の方で理解していることを文章にしてみました。アシエンダについての説明は「世界史の窓」さんに書かれていたものを引用させていただきました。ついでに、教科書や参考書に書かれている定義は以下の通りです。(用語集は今手元にないので、後で付け足しておきます。)

 

・『詳説世界史B改訂版』(山川出版社)2016年版

・『新世界史B改訂版』(山川出版社)2017年版

:索引に記載がありません。

 

・『世界史B』(東京書籍)

:スペインの植民地では、17世紀前半から、アシエンダ制とよばれる大土地所有にもとづく農園経営が広がり、大農園主は負債を負った農民(ペオン)を使って、農業や牧畜を営んだ。17世紀半ばから銀の生産が減少に向かって、交易がおとろえると、アシエンダ制はいっそう拡大した。(p.207

:ラテンアメリカ諸国では、19世紀初頭の独立後も大土地所有制(アシエンダ制)が存続し、植民地時代からの階層的な社会構成のもとで、極端な貧富格差と社会的不平等が残った。(p.303


・『詳説世界史研究』(山川出版社)2017年版

:…16世紀末以降エンコミエンダ制にかわってアシエンダ(大農園)制が広がり、スペインの植民地支配は維持された。先住民の減少で不足する労働力を補うためには、アフリカから黒人奴隷が導入された。(P.253

:…マニラ開港とともに、サトウキビ・タバコ・マニラ麻などの輸出向け商品作物生産がさかんになった。こうした商品作物栽培は、商人・高利貸しやスペイン人や修道会による大所有地(アシエンダ)を生み出した。(p.379

 

以上を確認してみると、高校世界史の中で紹介されている両制度の定義の基本的な区別は、エンコミエンダが先住民(インディオ)の強制徴発と半奴隷化によって成り立っているのに対し、アシエンダではインディオにかわる労働力として債務奴隷が用いられたこと。また、その成立の背景から、エンコミエンダが成立するのは基本的にはスペインによる征服時からインディオの人口減少により経営が難しくなり、さらにエンコミエンダに対する批判が強まる16世紀末ごろまでで、アシエンダが成立するのはそれと入れ替わるようにして17世紀以降からだということです。

ただ、私自身もこうした定義、特に「アシエンダとは何か」ということについて、昔はさっぱりイメージがわきませんでした。「エンコミエンダとどこが違うのか」、「そもそもインディオの激減で人口が減ったからアシエンダに変わるのにインディオの債務奴隷って何だ」とか、「債務奴隷ってどうやってできてどういう連中なんだ」とか、「黒人奴隷はどうなるんだ」、などです。

これらの疑問を解決して自分なりに納得するためには、高校世界史で紹介されている定義を離れて、そもそもアシエンダとはどういうものなのかを理解しておく必要があるように思います。そこで、アシエンダについて私なりに理解していることを以下にお示ししたいと思います。厳密には正しくないこともあるかもしれませんが、イメージはしやすくなるように思います。

 

・アシエンダとは、スペイン植民地などで何らかの労働力を用いて経営される大土地所有制のことを言う。

・この場合の労働力は、地域によって様々であり、先住民、黒人奴隷、債務奴隷などが用いられる。多くの場合、奴隷以外の労働力は何らかの形で土地所有者に対して経済的な「負債」を負っており、その対価として労働することになっている。(たとえば、土地を利用するにあたり必要な初期投資を地主に拠出してもらったとか、生活に必要な物資を工面してもらったなど) エンコミエンダとの違いは、エンコミエンダが「王室からの認可」によってその土地の統治を委任されているのに対し、アシエンダの場合は、地主は土地所有者であり、先住民の教化などの義務を負ったり、王室からの認可を(原則)必要とはしない点にある。

・土地の利用の仕方も様々で、商品作物栽培用のプランテーションが経営されることもあれば、その土地の自給自足のために小麦や食肉生産が行われることもあれば、鉱山などが近くにあれば鉱山経営がなされることもあり、そうした大土地経営全てをアシエンダと呼ぶ。(エンコミエンダが富の収奪に主眼が置かれるため、鉱山経営やプランテーション経営に偏りがちなことを考えると、アシエンダの自給自足型土地経営はややエンコミエンダと趣が異なる。)

・概念としては古代ローマにおけるラティフンディアに近く、ただ労働力が奴隷制のみに依存していない点でラティフンディアとは異なる。

・「アシエンダ」という呼称が用いられるかどうかや、その持つ意味も、各地によって異なる。たとえば、メキシコでアシエンダと呼ばれる大土地所有ないし大規模不動産は、アルゼンチンなどではエスタンシアと呼ばれ、このエスタンシアはアルゼンチンでは多くの場合、牛や羊の放牧地として使われる。(代表的な場所が地理などで良く出てくるパンパ。)

・ラテンアメリカに限らず、フィリピンなどのスペイン領植民地でも成立している。

 

だいたいこんな感じが「アシエンダ」のイメージになります。ですから、「アシエンダ制」という名前がついているにもかかわらず、そもそも「制度」ではない気がします。(エンコミエンダは「制」で構わないと思いますが。) イメージしやすくするために、プエルトリコにあるかつてのコーヒー農園だったアシエンダをご紹介しておきます。今ではこうしたアシエンダの一部はリゾート用の宿泊所にもなっているようですね。

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:プエルトリコのアシエンダ[復元] かつてはコーヒー農園で、
労働力として奴隷と地元住民が使役された。
Wikipedia英語版「Hacienda Lealtad」より)

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:罰を受ける奴隷がつながれた場所
Wikipedia英語版「Hacienda Lealtad」より)

また、その利用形態、使われる労働力、利用目的も地域や時期によってバラバラなので、これらを一括して何らかの統一された内容を示す用語として定義すること自体にかなり無理があると思います。より広義の概念を示す用語としてとらえた方がよさそうです。例として適切かはわかりませんが、イメージとしては、日本のものも、ヨーロッパのものも、時代も無視して全部ひっくるめた「荘園」という語のイメージに近いですねw ですから、そもそもエンコミエンダ制と対置できる概念なのかかなり疑問です。

ひと通り見てきましたが、高校世界史でエンコミエンダ制とアシエンダ(制)の両者の区別をするにあたっては、まず「エンコミエンダ制とは何か」をしっかりと理解した上で(エンコミエンダ制の方が定義がはっきりしているので)、以下のことをおさえておくと良いでしょう。

 

・エンコミエンダ制が展開されるのが16世紀であるのに対し、アシエンダ(制)が本格的に展開されるのが17世紀以降であること

・アシエンダ(制)は地域によって様々な形態があるが労働力としては主に負債を負った農民が用いられていること

・アシエンダ(制)はラテンアメリカだけでなく、フィリピンなどのスペイン領植民地でも展開されたこと

【追記(2024.2.16)】
アシエンダ制については「世界史探究」に対応した新しい「世界史用語集」(山川出版社、2023年12月初版発行)に以下の通り新たな記載で紹介されています。

:17世紀以降中南米のスペイン植民地で広まった大農場制。先住民人口の減少で衰退したエンコミエンダ制にかわり普及した。王領地購入などで得た広大な土地で、先住民や黒人奴隷を労働力にカカオ・サトウキビなどの商品作物を栽培した。

多少実態とはずれるところもありそうですが、だいぶすっきりとした文章で紹介されておりますので、少なくとも高校世界史で用いる場合にはこちらの理解で問題なさそうです。今後高校世界史でエンコミエンダとアシエンダの区別をつけたいと思った場合には以下のような区別がポイントになると思います。

エンコミエンダ
・スペイン国王がコンキスタドールに先住民統治を「委託」
・先住民のキリスト教化と引き換えに労働力としての使役を認める

アシエンダ
・王領地の購入などにより土地を「所有」
・労働力は先住民や黒人奴隷など様々

要は、①土地は王領地のままその管理を「委託」するか、土地の所有者として「私有」するかの違いと、②先住民教化の義務を負うか負わないかの違いがポイントになるかと思います。

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