世界史リンク工房

大学受験向け世界史情報ブログ

カテゴリ: 世界史Q&A

先日、動画授業でご紹介した際に「あー、これは普通に勉強していると分かりづらいかもしれないなぁ」と思ったものに「エルベ川以東」とはどのあたりを指すのかということがありましたので、少しだけお話ししてみたいと思います。

エルベ川については以前一橋の2013年過去問の解説をした際にご紹介しまして、ユトランド半島の西側の付け根から袈裟懸けにズバーッと切り下げたみたいな流れになっているのがエルベ川だというお話をいたしました。そこでもご紹介しましたが、高校世界史でエルベ川が出てくる場合には大体「エルベ川以東」という表現で、以下のような話と関連付けて出てくることが多いかと思います。
① 東方植民
② ドイツ騎士団
③ グーツヘルシャフト

ただ、この「エルベ川以東」っていうのが地図上でどのあたりで、そこにはどういったものがどういう配置で存在しているのかっていうのが具体的にイメージできるかっていうと、これが案外難しいんですね。少なくとも、高校生の頃の自分はいまいち把握できていなかった気がします。(今と違って全部本で調べないといかんかったのですよ…。) そこで、エルベ川以東を地図で示すとこんな感じになるかと思います。
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図中の、ユトランド半島の付け根から右下に向かって斜めに入っている水色のラインがだいたいのエルベ川の流れですね。上流(水色のライン右下)の先端部のあたりがちょうどチェコの北部にかかるようなイメージになります。ちなみに、エルベ川の上流の支流がチェコのプラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ川)です。
上の図をご覧いただくと、エルベ川以東には「ブランデンブルク辺境伯領(選帝侯領)」とか、「ドイツ騎士団領(16世紀以降はプロイセン公国)」といった、東方植民の際に登場する土地がしっかりと入っているのが見て取れるかと思います。このようにして見ると、普通は「プロイセンといえばドイツ」というイメージがあるかなと思うのですが、実際にドイツ騎士団領ができたころの位置はドイツではなくてかなりポーランドなんだなぁっていうのがお分かりいただけるかと思います。プロイセン公国がブランデンブルクと同君連合を形成したり、フリードリヒ2世のときにシュレジェンをぶんどったりしているうちにだんだんドイツ寄りに拡大してくるイメージなんですね。

ちなみに、エルベ川周辺にはほかにも世界史出てくるわりと重要な土地があったりします。たとえば、ウェストファリア条約(1648年)でスウェーデンに割譲されることでスウェーデンがバルト帝国を築くきっかけとなる西ポンメルンはエルベ川以東ですし、上の地図上にはありませんが同じくブレーメンはエルベ川の下流からやや西へ行ったあたりにあります。また、ハンザ同盟で良く知られるハンブルクはエルベ川河口の街ですし、盟主のリューベックはエルベ川より少し東側に行ったあたりにある街ですね。(リューベックがエルベ川以東の街であるという情報はたまに私大の問題などで問われたりします。) リューベック、ハンブルク、ブレーメンが東側から斜めに並んでいる感じですね。

話は変わりますが、このエルベ川の流域は「ドレスデン・エルベ渓谷」として世界遺産に登録されていた風光明媚な土地なのですが、ドレスデン市街に新しい橋ができたりして景観が損なわれたという理由で、同地域は2009年に世界遺産登録を抹消されてしまったそうです…。ちょうど橋が作られる頃の2008年ごろにベルリン→ドレスデン→プラハと電車旅を楽しんだことがありましたが、綺麗なところでしたけどねぇ。
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オクタウィアヌスの時代から始まる元首政について、東京書籍版「世界史B」と山川出版社版の教科書・参考書を見比べると、本当にちょっとした表現があるかないかということだけで「わかりにくい」、「わかりやすい」に差が出るんだなぁということに気づきます。元首政というのはやや特殊な政治形態なので、どうも高校生にはなじみにくく、理解しにくいようで、特に「元老院を尊重するってどういうことか」というのが分かりにくいようです。ローマの前期帝政における元首政(プリンキパトゥス)と後期帝政における専制君主政(ドミナトゥス)の違いについて説明する際、よく「前者は共和政の伝統や元老院を尊重したけれども後者は元老院を無視した。」というような説明がされることもあり、「元首政=共和政の伝統や元老院の尊重」という構図は出来上がるのですが、これだけだと元首政とは何ぞやということが分かりづらいのですね。東京書籍版「世界史B」の元首政に関する説明は、そうした意味で十分なものとは言えません。 

27年に元老院からアウグストゥス(尊厳なるもの)の称号を贈られたオクタウィアヌスは、共和政の伝統と元老院の威光を尊重しながらも、万人にまさる権威をもつ第一人者(プリンケプス)として統治する、事実上の皇帝となった。ここに帝政(元首政)がはじまったのである。(東京書籍「世界史B」、2016年版、p.51

 ここでは、たしかに元老院の尊重や権威の利用といった元首政の特徴は述べられているのものの、形式上は共和政の枠内で各種要職を兼任することによる独裁権力を掌握するという、権力行使の実態面については全く触れられておりません。さすがに「えらいよね~、すごいよね~」だけで政治権力が動くはずがないということには高校生でも気づきますので、「元老院を尊重するって何じゃい」という疑問が出てきても仕方ない記述になっています。ちなみに、専制君主政が出てくる箇所をはじめ、ローマ史について記載のある個所をひと通り見てみましたが、これ以外に元首政の仕組みについては触れられておりませんでした。一方、山川版の教科書は字数こそほとんど差がないものの、ある一文を入れることで劇的にその内容が分かりやすくなっていました。 

 権力の頂点にたったオクタウィアヌスは、前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。ここから帝政時代が始まった。彼はカエサルとは違って元老院など共和政の制度を尊重し、市民の中の第一人者(プリンケプス)と自称した。しかし実際にはほとんどすべての要職を兼任し、全政治権力を手中におさめていた。この政治を元首政(プリンキパトゥス)といい、事実上の皇帝独裁であった。(山川出版社「詳説世界史B改訂版」、2016年版、p.44

この赤字の部分が肝ですね。これがあるかないかで読み手の理解の進み方がずいぶん違ってくるのではないかと思います。同じく山川出版社の「新世界史B」ではこのあたりのところがより詳しく出ておりますので、さらに分かりやすくなっています。

…オクタウィアヌスは、戦時に保有していた軍指揮権などを国家に返還したが、前27年に元老院からアウグストゥス(「尊厳なる者」の意)の称号を与えられ、数多くの属州の統治もゆだねられた。アウグストゥスは、属州の防衛と治安維持のために再びローマの軍隊を指揮下に入れ、まもなくコンスルや護民官の職権も手に入れて、国家宗教の再興神官ともなった。彼はローマ国家の伝統の回復と共和政の尊重を表明し、元老院の「第一人者」(プリンケプス)として振る舞ったため、形式上は共和政が継続しているものの、実際には彼一人が国政上の権限のほとんどすべてを手にしており、「皇帝」の名に値する独裁者であった。(山川出版社「新世界史B改訂版」、2017年版、pp.42-43

まぁ、これだけ書けば分かりやすくなるのは当たり前なのですが、やはり上に示した山川の「詳説世界史B」の赤字部分はかなり大事な要素なんだなぁということが分かります。もっとも、これは別に東京書籍版はダメで、山川版が良いという単純な話ではありません。東京書籍版にも良いところはたくさんあります。それぞれの教科書に一長一短があり、元首政の説明では山川版の方が分かりやすいなぁというだけです。ちなみに、教科書ではなく参考書ですが、『詳説世界史研究』には、アウグストゥスの権力と権威について以下の事柄が示されています。(木村靖ニほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.58

 

【制度上の権力】

 インペラトル(最高軍司令官)

 属州総督命令権

 執政官

 護民官職権

 戸口調査官職権?(人口調査を行う権限)

 最高神官

元老院主席

元首(プリンケプス・最高裁判権を持つ)

【名誉・権威の称号】

 最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス

【栄誉の象徴】

 アウグストゥスの4つの徳を讃える黄金の楯、月桂樹の冠、カシワの葉の飾りが邸宅におかれる。(いずれも共和政期の国家に貢献した人物に与えられた名誉の飾り。)

 

 ほんまに片っ端からっていう感じがよくわかりますね。制度の利用の仕方や解釈の仕方次第で独裁権力を確保できるということはいつの時代もあまり変わりません。ここでは元首政について教科書内での表現の差についてお話ししましたが、元首政と専制君主政について専門書まで行かなくても、もうちょっとだけ詳しい内容を見たいという場合には桜井万里子、本村凌ニ『世界の歴史5:ギリシアとローマ』中央公論社、1997年(pp.322-325)や同じく本村凌ニ『興亡の世界史04:地中海世界とローマ帝国』講談社、2007年(pp.224-227306-311)あたりは、たいていの図書館に置いてあるでしょうから読み物として読みやすい気がします。いずれにしても、何かを伝えようとする場合に大切な要素は何かということをあらためて考えさせられました。

 

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【2024.2.16に記事の下段に追記を行いました】

昨日、ブログをお読みいただいている方からエンコミエンダ制とアシエンダ制の区別についてご質問をいただいたので、それについて書いてみたいと思います。こちらの区別は正直専門外ですので、私自身もよく把握していないのですが、とりあえずは高校世界史で紹介されている定義と、私の方で「こういうものかな?」と理解している事柄について書いた上で、「この辺をおさえておけばOK」という点をまとめてみたいと思います。分かりやすくまとめるのが主眼ですので、私自身がイメージしていることについては一部不正確な部分があるかもしれませんが、そのあたりをご理解の上でお読みください。

 

まず、すでにご存じかとは存じますが、エンコミエンダ制とアシエンダ制の高校世界史における基本的な定義は以下のようになっています。

 

エンコミエンダ制

:スペイン王室の認可を受けて、ラテンアメリカに入植したスペイン人植民者が、一定地域の先住民に対するキリスト教化の義務を負う一方で、同地の土地の利用や住民を労働力として使役する権利が認められた制度。

アシエンダ制

:スペイン人大土地所有者が現地人を債務奴隷として労働力とする大農園経営の形態。その地主であり経営者であるスペイン人入植者は現地のインディオの債務者を債務奴隷として家父長的に支配しながら経営した。「世界史の窓」、アシエンダ制より)

 

エンコミエンダの説明は私の方で理解していることを文章にしてみました。アシエンダについての説明は「世界史の窓」さんに書かれていたものを引用させていただきました。ついでに、教科書や参考書に書かれている定義は以下の通りです。(用語集は今手元にないので、後で付け足しておきます。)

 

・『詳説世界史B改訂版』(山川出版社)2016年版

・『新世界史B改訂版』(山川出版社)2017年版

:索引に記載がありません。

 

・『世界史B』(東京書籍)

:スペインの植民地では、17世紀前半から、アシエンダ制とよばれる大土地所有にもとづく農園経営が広がり、大農園主は負債を負った農民(ペオン)を使って、農業や牧畜を営んだ。17世紀半ばから銀の生産が減少に向かって、交易がおとろえると、アシエンダ制はいっそう拡大した。(p.207

:ラテンアメリカ諸国では、19世紀初頭の独立後も大土地所有制(アシエンダ制)が存続し、植民地時代からの階層的な社会構成のもとで、極端な貧富格差と社会的不平等が残った。(p.303


・『詳説世界史研究』(山川出版社)2017年版

:…16世紀末以降エンコミエンダ制にかわってアシエンダ(大農園)制が広がり、スペインの植民地支配は維持された。先住民の減少で不足する労働力を補うためには、アフリカから黒人奴隷が導入された。(P.253

:…マニラ開港とともに、サトウキビ・タバコ・マニラ麻などの輸出向け商品作物生産がさかんになった。こうした商品作物栽培は、商人・高利貸しやスペイン人や修道会による大所有地(アシエンダ)を生み出した。(p.379

 

以上を確認してみると、高校世界史の中で紹介されている両制度の定義の基本的な区別は、エンコミエンダが先住民(インディオ)の強制徴発と半奴隷化によって成り立っているのに対し、アシエンダではインディオにかわる労働力として債務奴隷が用いられたこと。また、その成立の背景から、エンコミエンダが成立するのは基本的にはスペインによる征服時からインディオの人口減少により経営が難しくなり、さらにエンコミエンダに対する批判が強まる16世紀末ごろまでで、アシエンダが成立するのはそれと入れ替わるようにして17世紀以降からだということです。

ただ、私自身もこうした定義、特に「アシエンダとは何か」ということについて、昔はさっぱりイメージがわきませんでした。「エンコミエンダとどこが違うのか」、「そもそもインディオの激減で人口が減ったからアシエンダに変わるのにインディオの債務奴隷って何だ」とか、「債務奴隷ってどうやってできてどういう連中なんだ」とか、「黒人奴隷はどうなるんだ」、などです。

これらの疑問を解決して自分なりに納得するためには、高校世界史で紹介されている定義を離れて、そもそもアシエンダとはどういうものなのかを理解しておく必要があるように思います。そこで、アシエンダについて私なりに理解していることを以下にお示ししたいと思います。厳密には正しくないこともあるかもしれませんが、イメージはしやすくなるように思います。

 

・アシエンダとは、スペイン植民地などで何らかの労働力を用いて経営される大土地所有制のことを言う。

・この場合の労働力は、地域によって様々であり、先住民、黒人奴隷、債務奴隷などが用いられる。多くの場合、奴隷以外の労働力は何らかの形で土地所有者に対して経済的な「負債」を負っており、その対価として労働することになっている。(たとえば、土地を利用するにあたり必要な初期投資を地主に拠出してもらったとか、生活に必要な物資を工面してもらったなど) エンコミエンダとの違いは、エンコミエンダが「王室からの認可」によってその土地の統治を委任されているのに対し、アシエンダの場合は、地主は土地所有者であり、先住民の教化などの義務を負ったり、王室からの認可を(原則)必要とはしない点にある。

・土地の利用の仕方も様々で、商品作物栽培用のプランテーションが経営されることもあれば、その土地の自給自足のために小麦や食肉生産が行われることもあれば、鉱山などが近くにあれば鉱山経営がなされることもあり、そうした大土地経営全てをアシエンダと呼ぶ。(エンコミエンダが富の収奪に主眼が置かれるため、鉱山経営やプランテーション経営に偏りがちなことを考えると、アシエンダの自給自足型土地経営はややエンコミエンダと趣が異なる。)

・概念としては古代ローマにおけるラティフンディアに近く、ただ労働力が奴隷制のみに依存していない点でラティフンディアとは異なる。

・「アシエンダ」という呼称が用いられるかどうかや、その持つ意味も、各地によって異なる。たとえば、メキシコでアシエンダと呼ばれる大土地所有ないし大規模不動産は、アルゼンチンなどではエスタンシアと呼ばれ、このエスタンシアはアルゼンチンでは多くの場合、牛や羊の放牧地として使われる。(代表的な場所が地理などで良く出てくるパンパ。)

・ラテンアメリカに限らず、フィリピンなどのスペイン領植民地でも成立している。

 

だいたいこんな感じが「アシエンダ」のイメージになります。ですから、「アシエンダ制」という名前がついているにもかかわらず、そもそも「制度」ではない気がします。(エンコミエンダは「制」で構わないと思いますが。) イメージしやすくするために、プエルトリコにあるかつてのコーヒー農園だったアシエンダをご紹介しておきます。今ではこうしたアシエンダの一部はリゾート用の宿泊所にもなっているようですね。

enko

:プエルトリコのアシエンダ[復元] かつてはコーヒー農園で、
労働力として奴隷と地元住民が使役された。
Wikipedia英語版「Hacienda Lealtad」より)

enko2

:罰を受ける奴隷がつながれた場所
Wikipedia英語版「Hacienda Lealtad」より)

また、その利用形態、使われる労働力、利用目的も地域や時期によってバラバラなので、これらを一括して何らかの統一された内容を示す用語として定義すること自体にかなり無理があると思います。より広義の概念を示す用語としてとらえた方がよさそうです。例として適切かはわかりませんが、イメージとしては、日本のものも、ヨーロッパのものも、時代も無視して全部ひっくるめた「荘園」という語のイメージに近いですねw ですから、そもそもエンコミエンダ制と対置できる概念なのかかなり疑問です。

ひと通り見てきましたが、高校世界史でエンコミエンダ制とアシエンダ(制)の両者の区別をするにあたっては、まず「エンコミエンダ制とは何か」をしっかりと理解した上で(エンコミエンダ制の方が定義がはっきりしているので)、以下のことをおさえておくと良いでしょう。

 

・エンコミエンダ制が展開されるのが16世紀であるのに対し、アシエンダ(制)が本格的に展開されるのが17世紀以降であること

・アシエンダ(制)は地域によって様々な形態があるが労働力としては主に負債を負った農民が用いられていること

・アシエンダ(制)はラテンアメリカだけでなく、フィリピンなどのスペイン領植民地でも展開されたこと

【追記(2024.2.16)】
アシエンダ制については「世界史探究」に対応した新しい「世界史用語集」(山川出版社、2023年12月初版発行)に以下の通り新たな記載で紹介されています。

:17世紀以降中南米のスペイン植民地で広まった大農場制。先住民人口の減少で衰退したエンコミエンダ制にかわり普及した。王領地購入などで得た広大な土地で、先住民や黒人奴隷を労働力にカカオ・サトウキビなどの商品作物を栽培した。

多少実態とはずれるところもありそうですが、だいぶすっきりとした文章で紹介されておりますので、少なくとも高校世界史で用いる場合にはこちらの理解で問題なさそうです。今後高校世界史でエンコミエンダとアシエンダの区別をつけたいと思った場合には以下のような区別がポイントになると思います。

エンコミエンダ
・スペイン国王がコンキスタドールに先住民統治を「委託」
・先住民のキリスト教化と引き換えに労働力としての使役を認める

アシエンダ
・王領地の購入などにより土地を「所有」
・労働力は先住民や黒人奴隷など様々

要は、①土地は王領地のままその管理を「委託」するか、土地の所有者として「私有」するかの違いと、②先住民教化の義務を負うか負わないかの違いがポイントになるかと思います。

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一条鞭法と地丁銀は、それぞれ明代・清代に導入される税制で、どちらも銀によって税を納めるという点で共通しています。これらの税制が導入された背景には、明代の後半ごろから大交易時代(大航海時代)の影響を受けて、様々なルートから明に銀が流入し、銀によって取引の決済が行われる銀経済が成立したことがありました。

ところが、一条鞭法と地丁銀について、最近の特に山川系の用語集や参考書が一様に記述を改めておりまして、両者の違いが受験生には分かりにくくなっているのではないかと思われます。東京大学2004年世界史大論述の解説を作成しているときに気が付いたのですが、どうも最近は一条鞭法について「とりあえず、全部銀でおさめることになったよ」的な記述しかしていないようなんですね。以下にいくつか例示してみます。

 

「明代後期から実施された税法。銀経済の進展と不正の横行を受け、複雑化していた租税と徭役を銀に換算し、一本化して納入させた。16世紀中頃に地方から始まり、清の地丁銀制のさきがけとなった。」(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、2018年版)

 

「もともと明代初期には、米などの現物で徴収される税や実際の労働による徭役が主流であったが、それらの税や徭役は15世紀以降次第に銀納化されていき、16世紀には一条鞭法の改革が進んで、各種の税や徭役を銀に一本化してまとめて納税する制度が普及した。」(木村靖二ほか編『改訂版:詳説世界史研究』山川出版社、2017年版)

 

ですが、実は旧版の教科書や参考書では、一条鞭法がまとめた税は地税と丁税(人頭税)であるとはっきり書かれているものが多いです。その上で、これらを銀で一括納入する制度であるというような記述の仕方がされています。

 

「唐の中期以降、宋元時代を通じておこなわれてきた基本税制である両税法では穀物や生糸・銅銭などで納税されたが、一条鞭法では土地税や人丁(成年男性)に課せられる徭役などのあらゆる税を一本化して銀納させるもので、徴収を簡素化・能率化させた画期的な税制である。」(木下康彦ほか編『改訂版:詳説世界史研究』山川出版社、2008年版)

 

「明代後半から清初に実施された税制。田賦(土地税)と丁税(人頭税)などを一括して銀で納めることとした新税法。16世紀後半、まず江南で施行され、同世紀末までに全国に波及した。銀の流通増大を反映したもの。」(全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集:改訂版』山川出版社、旧版)

 

最近のものでも、たとえば東京書籍の教科書は似たような記述をしています。

 

16世紀の江南では唐以来の両税法にかわり、田賦(土地税)、丁税(人頭税)、労役などの煩雑な諸税を一括して銀で納める一条鞭法がはじまり、16世紀末には全国に広まった。」(『世界史B[教科書]東京書籍、2016年検定版)

 

なぜ、最近の山川の用語集や参考書の記述が、これまでの「一条鞭法=地税・丁税の一括銀納」という記載から「一条鞭法=諸税を一括銀納」という表現に変わってきているのかについては、中国史の専門家ではないものでよくわかりません。高校生向けに分かりやすい記述をしようとした結果なのかもしれませんし、歴史学の分野で新たな学説や見方が定着した結果なのかもしれません。(実際、中国近世財政史には新たな展開が見られるようです。)

ただ、間違いなく言えるのは一条鞭法の説明を「諸税を一括銀納」と単純化してしまうと、清代の地丁銀についての説明である「丁税(人頭税)を廃止し、地税(土地税)に一本化した」という説明が、かえってわかりにくくなるということです。ですから、両者の違いを分かりやすく理解しやすいのであれば、旧版の記述にしたがって理解する方が良いような気がします。地丁銀の説明としてよく出てくる「丁税を地税に繰り込む」という表現は、以下のような内容のことを指しています。

①「丁税と地税を取ってたけど、人口増えて丁税チェックするのが手間」

②「だから、今の人口をもとに人口については固定化しちゃおう」

③「固定化した人口が土地に住んでいると仮定して、地税の中に丁税分を足しちゃおう」

たまに、「丁税が廃止されたので減税された」のような書き方をしているものに出くわしますが、丁税はあくまでも地税の中に「繰り込まれ」ただけで、税が消失したわけではありませんので、正確な表現ではないと思います。このような形で地丁銀を理解するとすれば、歴史学的に厳密に正しいかどうかは別として、やはり一条鞭法は「全部銀納」で理解するよりも「地税と丁税を一括銀納」と理解した方がわかりやすいと個人的には思います。

 

【両税法、一条鞭法、地丁銀の違い】

両税法(唐代~[780年、徳宗の時代の宰相楊炎による]

:諸税がごちゃごちゃ。原則銭納とされたが、貨幣経済が浸透しきっていないので実態としては絹布をはじめ物納も。

一条鞭法(明代~[万暦帝期の宰相張居正により普及]

:地税、丁税の二本立て。どちらも銀納。

地丁銀

:丁税を地税に繰り込む。一括銀納。

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【普遍論争とは】

世界史の学習の中でも、特に受験生が「いまいち中身がわからん」と感じるものの中に「普遍論争」があります。普遍論争は、中世スコラ学が発展していく過程で発生した論争の一つなのですが、その内容がやや入り組んでいるため、高校世界史では詳しい内容まで突っ込んで解説されることがありません。もっとも、受験問題としてはせいぜい主要な論者であるアンセルムスとアベラールの名前や、それぞれが実在論と唯名論の立場に立っていたということ、各論の簡単な内容程度しか出題されませんので、「アンセルムス‐実在論」、「アベラール‐唯名論」と覚えてしまえば大体の出題には対応できてしまうため、受験生はこれを丸暗記することになるのですが、その中身が全くイメージできないため「何かモヤモヤする」感じを拭い去ることができないまま受験を終え、そしてほとんどの世界史知識と同様に忘却の彼方へと葬り去られていくことになりますw

 

ですが、「普遍論争」は、そもそも「なぜそうした論争が生まれるのか」や、「実在論や唯名論は何をもたらしたか」を考えたとき、中世ヨーロッパの神学・哲学の発展の上で非常に重要な意義を持っています。(だから教科書や参考書に載るわけですが。) その意義が理解できれば、中世ヨーロッパ文化の発展をもっと立体的に、実感をともなって理解することが可能になるので、できれば理解しておきたいところです。そこで、本稿ではこの「普遍論争」をできるだけかみ砕いて説明したいと思います。(ただ、元々の内容がとても難しいので、キリスト教やギリシア哲学についての基礎知識がないとちょっと厳しい部分もあるかもしれません。)

 

普遍論争は極めて神学的・哲学的・形而上学的な議論ですから、わかりやすく伝えることがものすごく難しいです。正確性を追求すると、どんどん難しくなってしまって収拾がつかなくなってしまいます。ですから、これからお話しする内容は多分、ところどころ間違っていますw ですがそれは、できるだけわかりやすくイメージできるように伝えたいという目的からくるものですので、「お前、それは間違っているぞ」というような不毛な議論はしかけないようにお願いしますw ぶっちゃけ、普遍論争のディテールを多少間違えて理解したからと言って、それが人生の致命傷になるという人はごく稀だと思います。と言うか、いるのかそんな奴。

 

[実在論と唯名論]

イスラーム世界を介して古代ギリシア・ローマの哲学が流れ込み、ヨーロッパに知の世界における革新が起きた、いわゆる12世紀ルネサンスが起こる頃に、ヨーロッパでは後に実在論と唯名論として認識されることになる議論が巻き起こります。これが普遍論争です。

実在論の主要な論者はアンセルムス(1033-1109というカンタベリの大司教でした。アンセルムス自身は主に11世紀に活躍した人物ですが、彼の理論というのが12世紀に入り普遍論争が生じる土台となります。通常「普遍」とは、「全てのものにあてはまること」とか「ある範囲の全てのことがらにあてはまること」であり、「普遍的な」とは「全てのものにあてはまる様子」のことを言います。これと似てはいますが、実在論における「普遍」とは、個別に存在する「個(個物)」に対置される概念で、「個」を特徴づける本質的な部分または概念のようなものです。わかりにくいのでかみ砕きますと、五条悟とナナミンと釘崎野薔薇は、それぞれ別個の「個」なわけですが、全て「人間という類(ないしは形相)」に属するもので、犬や猫ではありません。パンダパイセンはどうなるんだという議論はここでは必要ありません。また、織田シナモン信長も、武田ラッキー信玄も、今川ギルバート義元もそれぞれが別個の「個」なわけですが、「犬という類・形相」に属するもので、人間ではありません。中身は人間じゃねーかという議論はここでは必要ありません。 

 いずれにせよ、「個」が実体をともなった事物として存在することに疑いはありません。五条悟という人間は存在し、触ることもできる物体として「ある」わけです。(マンガの中の人物じゃねーかという議論はここでは必要ありません。)問題は、このそれぞれの「個」を特徴づける、またはそれぞれの「個」の本質的な部分である「普遍的」な「類・形相」(つまり普遍論争ではこれを「普遍」とするわけですが)は、「個」と同様に実体をともなった存在としてあるのかどうか、ということです。五条悟も、ナナミンも、野薔薇ちゃんも、「個」が「実在する」ことは疑いがない。では、それらの本質たる「人間」という「普遍」は同様に「実在しているのか」、これが普遍論争の要点になります。これについて、「実在する」と考えるのが実在論、「実在しない」と考えるのが唯名論です。

実在論では、「類・形相」は「個」を形成する材料のようなものとして存在していると考えます。つまり、「人間」という土台の上に様々な要素が加わった結果として個別の「個」になっているが、もしそれぞれの「個」から余分な要素を取り払ったとき(実際にはできないのですが)には「人間」という「実在」が残ると考えるわけです。つまり、アンセルムスをはじめとする実在論者は、「個」よりも先に「普遍」が実在をともなって存在すると考えたわけです。

一方、唯名論では「普遍」は「個」のような実在ではなく、あくまでも類を示す「名称」(または概念)にすぎないと考えます。つまり、「個」のように実体をともなって存在するものではなく、(論者の立場により違いはありますが)基本的には人間の頭の中にある「名称・概念」に過ぎないと考えるわけです。こうした唯名論者として有名なのはフランスの神学者アベラール(1079-1142やイギリスのフランシスコ会士であるオッカムのウィリアム(1285-1347、ウィリアム=オブ=オッカム)などがいます。アベラールは家庭教師として教えた20歳以上も年の離れたエロイーズに手を出して、エロイーズの叔父に去勢されたことでも有名な人です。その後、エロイーズは修道女(というか後には大修道院長)となりましたが、その間も両者の間には大量の書簡というか、ラブレターが残されているあたり人間としての業を感じます。

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[普遍論争が生じた背景]

では、そもそもなぜ普遍論争は生じたのでしょうか。よく「12世紀ルネサンスがきっかけで」と言われますが、それはどういうことなのでしょうか。まず、普遍論争の前提として、古代ギリシアの哲学、特にプラトンやアリストテレスの哲学と、ローマ帝国時代の新プラトン主義の創始者とされるプロティノスの思想があると言われています。

プラトンのイデア論はよく知られています。イデア論というのは、「世界に存在するのはイデアであって、現実とはイデアが様々な形をとってあらわれたに過ぎない」という考え方です。これも感覚的によくわからないことなので少し簡単にお話します。プラトンは、イデアについて「人間にはそれをつかむことはできない」けれども「たしかに存在する」と考えます。そして、現実世界は、イデアの影のようなものが様々な形で我々に感知されたものに過ぎないとします。

 たとえばですが、私たちは白鳥を見ても、フラミンゴを見ても、雀を見ても「鳥だ」と認識します。もっと言ってしまえば、たとえば白い紙を二つに折って、パタパタと羽ばたかせた場合、「紙」ではなく「鳥(のような)」として認識することがあるかもしれません。こうした認識は基本的には各人に共通しているものであって、カモメを見て「イノシシだ」という人はいないわけです。同様に、岩を見て「水だ」という人もいなければ、アリを見て「花だ」という人もいません。また、別のパターンについて話しますと、「花」も「景色」も「女性」も、見目麗しいものは多くの人が「美しい」と感じるわけです。


 ということは、「〇〇は鳥である」とか、「〇〇は美しい」と認識できる共通項が存在しなければいけません。そうでなければ、全く別の人間、場合によっては言語や文化も違う人間があるものを見て「人」、「鳥」、「美しい」などの同類のものとして認識することは不可能なはずです。プラトンは、こうした共通項が必ず存在するはずで、それをイデアであると主張したわけです。このイデア論は、アリストテレスにも継承されていきますが、プラトンがイデアはその現実世界への投影である個々の事物から独立して実在すると考えたのに対し、アリストテレスはあるものにそのものの性質を与える形相(エイドス:プラトンの言うところのイデア)はそのものを物質的に構成する質料(ヒュレー)に内在するもので、分離しては存在しえないと考え、プラトンのイデア論とはやや異なる形で発展させていきます。

 よりイデア論に近く、かつ後のキリスト教神学に大きな影響を与えたと考えられているのが、古代ローマのプロティノスが創始した新プラトン主義(ネオプラトニズム)です。プロティノスはこの人です。何か、スカーフェイスっぽくてイカついです。

Plotinos
(Wikipedia「プロティノス」より)

 プラトンのイデア論に影響をうけたプロティノスは、「流出説」と呼ばれる考え方を主張します。流出説とは、「一者」と呼ばれる無限の存在(神のようなもの)が存在し、その働きによって万物が生み出されているという考え方です。「一者」は、全ての存在の根底をなしつつ、全ての存在を超越するものであり、無限であり、その働きによって万物を生み出すものの、「一者」は変化も増減もしません。太陽が、自身は変わることなく存在することで周囲を照らし、様々な効果を生むようなものである、とプロティノスは考えます。このあたり、キリスト教の「神」概念に似ていると思いませんか?

 実際、プロティノスの「一者」と流出説は、キリスト教初期の神学者に影響を与えます。中でも、明らかにプロティノスの説に影響を受けたと考えられるのが教父アウグスティヌスです。アウグスティヌスは『告白(告白録)』の中で以下のように述べます。

 

 驚くべき高慢のために膨れ上がっているある人をとおして、あなた(神)はプラトン派の書物を私に与えたもうた。この書物は、しかし、ギリシャ語からラテン語に訳されていた。「始めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。この言葉は、始めに、神とともにあった。あらゆるものは、その言葉からつくられ、そしてこの言葉によらずに、つくられたものは一つもなかった。つくられたものは、この言葉においては生命であり、生命は人々の光であった。そして光りは暗闇の中で輝いたが、暗闇はこの言葉を知らなかった。」確かにわたしはプラトン派のある書物の中にその章句を見いだして、読んだのではなかった。けれども、その章句の意味と非常に似ている事柄が、多くの種類の様々な理由によって、説かれているので、わたしはこれを読んだのである。

 

ある学者は、この文章を引用してこの文章中の「言葉」という語を「イデア」と置き換えればプラトンの思想と一致し、またプラトンのイデアにはなかった「創造」という要素を考えると、アウグスティヌスが影響を受けたのはむしろ「一者」からの「流出」が万物の根幹となるとするプロティノスの思想に影響を受けていると指摘しています。(大多和明彦「プロティノスの一者について」、『東京家政大学研究紀要』第32(1)pp.1-111992年、引用文含む)

 このように、プラトンのイデア論や新プラトン主義は、キリスト教の初期において非常に親和性の高いもので、一部の神学者は大いに影響を受けていました。ですが、ローマ帝国の崩壊と、ゲルマン諸国家の乱立による混乱、新たな教会組織の整備にしたがって、ギリシア・ローマの哲学は次第に異端(キリスト教以前)の学問として忘れ去られていきます。しかし、十字軍や東方貿易、レコンキスタなどを通して、イスラーム世界でアラビア語訳されて保存されていたギリシア・ローマの学問が新たにラテン語に翻訳されて西ヨーロッパ世界に流れ込むと、当時の神学者たちは流れ込んできた学問体系と聖書との矛盾に戸惑うと同時に、聖書や初期の教父哲学の中に見出されるギリシア・ローマ哲学との親和性や、高い知性や精緻な観察に裏付けられた知の体系に驚き、この新しい刺激をどのように自分たちの信仰と調和させ、取り込んでいくかを真剣に考えるようになります。これがスコラ学です。つまり、スコラ学は聖書にある事柄や、それに基づくカトリックの信仰と世界観を、ギリシア・ローマの哲学により弁証(論をたてて証明)することで調和させ、より精緻な知の体系として作り上げようという試みでした。

 

[普遍論争とキリスト教神学]

12世紀ルネサンスとともに発展したスコラ学でしたが、そこで起こった普遍論争はキリスト教の教義の根幹にかかわる問題をはらんでいました。なぜなら、イエスが人類の「原罪」を背負って昇天したとするキリスト教の根幹ともいえる教義が揺らいでしまう可能性があるからです。つまり、「普遍」がもし存在しないのであれば、全ての「個」は独立した別個の存在となります。だとすればアダムとイブが犯したとされる罪はあくまでアダムとイブという「個」の犯した罪ということになります。また、「人類」という「普遍」が存在しない以上、世界に存在する人々は別個の「個」なのであって、アダムとイブとは無関係、すなわち「人類」の「原罪」自体が存在しないことになってしまうのです。だとすれば、何のためにイエスが十字架にかけられたのか分からなくなってしまいます。

また、プロティノス風に言えば「一者」は、キリスト教の「神」と同一視できるものですが、「普遍」が実在しないのであればこの「一者」の実在も怪しくなります。つまり、「普遍」が「実在」するか否かという問題は、そのまま「神」は「実在」するか否かの問題につながってくるのです。

 これについて、実在論をとったアンセルムスの立場は「理解せんがために我信ず」という言葉で表現されます。つまり、神を理解するためにはまずその実在を信じるところから始めなければならないとする考え方です。これは、中世のキリスト教の知的世界において「哲学は宗教の婢」とされた考え方とも合致する発想です。つまり、「信仰>理性」なのですね。

 これに対して、アベラールやオッカムのウィリアムなどの唯名論者の立場は「信ぜんがため我理解す」という言葉で表現されます。これは、自分としても神を信じたい。だが、実際には神が実体をともなって姿を見せることはないし、実在することを証明もできない。であるならば、神とは何なのか、自身の信仰のためにもまずは理解したいという立場です。大切なことは、唯名論はたしかに「神」がこの世界に実体をもって「実存」することは否定しますが、神そのものを否定してはいないということです。神は、すくなくとも名前や、かれらの頭の中(理性)の中には存在しているし、また人の知覚できない何らかの形で存在しているかもしれない。でも、人間や動物、物などと同じように現実世界に「実存」しているとは思えない、というのが唯名論の立場であるわけです。

 

[普遍論争がもたらしたもの]

この普遍論争は、13世紀にトマス=アクィナスが『神学大全』をまとめて、どちらかと言えば実在論的な立場に沿ってスコラ学を大成させたことにより、基本的には普遍は実在するという考え方、もっと言えば神(絶対的存在)は実在するという考え方がカトリック教会の主流となっていきます。ギリシア・ローマ哲学をその世界観の中に組み入れたスコラ学により、カトリック教会の教義はより精緻で体系的なものとなりました。

ですから、一部の教科書や参考書では「普遍論争は実在論が勝利して終わった」のような調子で書いてあるものもあるようですが、ことはそう簡単ではありませんでした。一時は下火になった唯名論でしたが、唯名論的な立場はその後も続き、14世紀にはイギリスのオッカムのウィリアムなど、有力な唯名論者が登場して実在論を批判していきます。こうした流れは、13世紀イギリスでイスラームの科学者たちの著作に影響を受けて、実験・観察や経験による知識を重視したロジャー=ベーコンなどの考え方ともあいまって、近代的な経験論的哲学の基礎を形づくっていきます。つまり、「聖書に書いてあるんだから黙ってそれを信じればいい」という立場にとどまるのではなく、「それがあるかないか、どうなっているか、確かめてみよう」という立場が芽生え始めるわけです。こうした立場は、最終的には17世紀の「科学の世紀」へとつながる実験・観察を重視する立場を生み出し、実験・観察を行う手法や技術の発展につながっていきます。

また、実在論・唯名論にかかわらず、キリスト教世界がギリシア・ローマ哲学を包含し、その世界観の中に組み入れていったことは、その後のルネサンスにおける古典文化の復興や、人文主義の発展にもつながっていきます。

つまり、普遍論争がなぜヨーロッパの文化にとって重要であるかと言えば、その後のルネサンスや宗教改革、地理上の発見やその後の科学の世紀へとつながる近代的な思想や技術を準備する苗床となったという点で非常に重要であるわけです。そのような視点から、教科書や参考書の中に「なぜ、ここで普遍論争が登場するのか」をあらためて見直してみると、新しい発見があるのではないでしょうか。

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