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カテゴリ: 世界史Q&A

以前から奴隷制をめぐる出題は多かったのですが、近年はその度合いが増してきています。今までの政治史中心の歴史から、社会史のような人に焦点をあてた歴史、または経済・社会・文化といった人の動きや考えを取り入れた歴史が重視されてきているせいかもしれません。

 ところで、奴隷制をめぐる問題で最も出題頻度が高いのはやはりアメリカの南北戦争と奴隷制廃止をめぐる動きかと思います、一番有名なのはやはり1863年の奴隷解放宣言ですが、奴隷制をめぐる動きは実はそれより前から存在します。中でも、受験生にはいまいち理解しにくいのが「カンザス=ネブラスカ法」です。カンザス=ネブラスカ法制定はアメリカの二大政党の一つである共和党結成に深くかかわっています。前のトランプさんの側の政党が共和党ですね。

 ですが、このあたりの事情が多少込み入っているために、一問一答式や穴埋め重視の授業・学習スタイルで覚えている人には、カンザス=ネブラスカ法と共和党結成の関連性がとらえにくい(あるいは、見逃してしまう)のです。

 では、カンザス=ネブラスカ法の何が問題だったのでしょうか。

 アメリカでは、19世紀(1800年代)の前半から、奴隷制を認めない自由州と奴隷制を認める奴隷州の対立が深まり始めていました。そうした中で、ミズーリが奴隷州として新たな州としての加盟を申請すると、この申請を認めるか否かで大きな議論となりました。当時、各州からは2名の議員が選出されることになっていたため、新たに昇格する州が自由州であるか奴隷州であるかは、奴隷制度の問題だけでなく議会内のパワーバランスにもかかわる問題でした。

 この問題に一定の妥協点を見出すために結ばれたのが1820年のミズーリ協定です。ミズーリ協定は、ミズーリ州を奴隷州として認めるかわりに、今後新しく誕生する州については北緯3630分以北に誕生する州を自由州、以南に誕生する州を奴隷州とするという内容でした。その後誕生したアーカンソー州やミシガン州などは、この協定にしたがってそれぞれ奴隷州、自由州となっていきます。

 ミズーリ協定 - コピー
 1849年ごろのアメリカ合衆国と北緯36度30分線
青は自由州赤は奴隷州(灰色部分は州に昇格していない地域)
Wikipedia「北緯3630分」より、一部改変)


 ところが、1854年に制定されたカンザス=ネブラスカ法はこの妥協を破壊する内容でした。つまり、「新たに創設されるカンザス準州(州に準ずる自治権をもつ地域)ならびにネブラスカ準州においては、これらの地域に住む人々の住民投票によって奴隷制を認めるかどうかを決めること」とされました。下は、カンザス、ネブラスカ両州の位置です。(ただし、地図は現在のもの)

54-2南北戦争【移民史追加後】 - コピー

Wikipedia「カンザス州」[]と「ネブラスカ州」[]より引用、作成)

 
 ご覧いただくと分かるのですが、実はこの二つの準州はミズーリ協定で定められた北緯3630分線よりも北にある土地でした。つまり、カンザス=ネブラスカ法はミズーリ協定に従えば本来は自動的に自由州になるはずの土地において、奴隷制を認めるか否かを住民に選ばせる(奴隷州になる可能性がある)ことを認める法律に他なりませんでした。これに怒った北部自由州を中心とする奴隷制反対派によって、1854年に共和党が結成されました。その後、南部を中心とする民主党と、北部を中心とする共和党のあいだでは奴隷制をめぐる問題を中心に対立が続き、1860年の大統領選挙で共和党のリンカンが当選したことをきっかけに南北戦争(18611865)へと突入していくことになります。

 南北戦争を理解する上で、共和党は重要な要素であるために必ず教えられるのですが、「なぜ共和党が結成されたのか」については「カンザス=ネブラスカ法をきっかけに奴隷制をめぐる対立が高まったから」と通り一遍のことしか教えてくれない場合があります。ですがやはり、「そこにはどういう意味があるのか」を掘り下げて理解しておいた方が、ストーリーがはっきりしてより良く理解できるのではないかと思います。 

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世界史受験では、イギリスの選挙法改正は必須の内容です。最近は昔と比べるとやや出題頻度は落ちてきたような気もしますが、その分細かいところまで出題されるようになった気がします。20年前まではせいぜい第3回選挙法改正まで抑えておけばよかったところが、最近は女性の権利についての視点が重視されるようになったせいか第4回選挙法改正(女性参政権)や、第5回選挙法改正(男女の平等化)まで出題されるようになってきましたし、グレイやダービーといった改正時の首相の名前までかなり細かく出題されるようになりました。選挙法改正についての一覧はこちらをご覧ください。

イギリスの選挙法改正については、第6回のウィルソン労働党内閣による選挙法改正までが参考書等で書かれていますが、このうちの最初、第1回の選挙法改正がなされたのは1832年のグレイ内閣でのことです。

グレイ

Wikipedia「チャールズ・グレイ」より)

この1830年代というのは、イギリスにおいて産業資本家が台頭し、自由主義の風潮が高まって様々な諸改革が進められた時期であることを意識しておく必要があります。ざっと例を挙げるだけでも、奴隷制の廃止、東インド会社の中国貿易独占権廃止と商業活動の停止、工場法の制定などは1833年のことです。「あ、教科書で並んでるの見たことある」という人も多いのではないでしょうか。これらの諸改革が進められた時の首相であったグレイはノーサンバーランドに拠点を持つ伯爵でしたが、フランス革命のような過激な変化によってイギリスの体制が崩壊することを恐れ、むしろ積極的に一定の限度での改革を進めることでイギリスの立憲君主制を維持しようとした人物でした。また、ベルガモットで柑橘系の香りをつけた紅茶であるアールグレイは彼に由来すると言われます。(Earl=英語で「伯爵」の意。もっとも、名前の由来とされるいくつかのエピソードは必ずしも事実に基づくものではないようですが。)

 さて、そんなグレイが首相を務めた時期に行われた第1回選挙法改正では、産業資本家に選挙権が与えられました。(実際には、一定の財産を有する者に選挙権が与えられたのですが、こうした財産を保有していた層が主として産業資本家だったわけです。)それと同時に、腐敗選挙区が廃止をされます。この腐敗選挙区は、選挙における1票の格差を是正するための重要な変化だったのですが、世界史の教科書の中では「腐敗選挙区とは何か」についてはあまり語られません。そのため、授業をする先生がこのことに触れてくれない場合、「腐敗選挙区が廃止された」と言われても何のことやらイメージできず、受験生はただオウム返しのように「フハイセンキョクガハイシサレタ」と覚えるのみ、という何とも不毛な知識の吸収で終わってしまいがちです。そこで、ここでは腐敗選挙区とは具体的にどのようなもので、腐敗選挙区の廃止とはどういうことなのかをイメージできるようにご説明したいと思います。

 腐敗選挙区というのは、様々な事情によって、極端に少ない有権者により議員が選出される選挙区のことです。イギリスでは古くから議会制度が発達する中で、一定の発展を見せた町などに対し、王家が特許状(royal charter)を出すことで2名の庶民院議員を選出する権利を与えました。ところが、この特許の内容が数百年たっても変化しないんですね。そのため、地域によっては人口変動によってまったく町としての体をなしていないにもかかわらず議員を選出できたり、逆に急激に人口が増加したにもかかわらず議員を選出する権利を有しない都市などが出てきます。

 前者の代表格は南西イングランドのウィルトシャーにあるオールド=サラム(Old Sarum)です。近くにはストーン=ヘンジなどの古代遺跡もあるこの土地は、かつては城壁都市で大聖堂などもあったのですが、後に放棄されます。そして、新たに大聖堂が建設された現在のソールズベリーの周辺に人々が居住するにしたがって、かつてのオールド=サラムの建物は新しい街の建材に利用されるなどしてすっかり衰退し、14世紀頃には実質的に無人となります。ですが、オールド=サラムが城壁都市だった時代に得ていた2名の議員の選出権は残り続けます。17世紀には同地の住民はおらず、1831年の時点でも有権者は11名にすぎず、それも同地に居住実態のない地主であったそうです。はっきりいってド田舎もいいところですw ちなみに、こちらが現在のオールド=サラムです。「跡地」って感じですね。

 OS
(Wikipedia UK, 'Old Sarum'より)

 

このような選挙区では、当然のことながら有権者同士は顔見知り、かつ利害関係を有していることが多く、公然とした買収や談合が行われます。10名程度の人間に「次の議員、〇〇にすっから、よろしく~♪」と言えば議員を選出できるわけですから、これほど楽なことはありません。このような選挙区が腐敗選挙区ですが、こうした選挙区はオールド=サラムに限ったことではなく、当時の記録によれば400人強の選出者のうち、150名ほどが100人未満の有権者から選ばれ、90名近くが50人未満の有権者から選ばれていたそうです。[Carpenter, William, The People's Book; Comprising their Chartered Rights and Practical Wrongs, (London: Palala Press, 2016)] 当然のことながら、こうした「古くからの」選挙区の恩恵にあずかっていたのは広大な土地を有する地主や貴族たちでした。特に、イングランドと比べて土地価格が安いうえに、土地所有権に一定の制限が存在したスコットランドの選挙区では、有権者の数が少なく、一部の有力者に牛耳られた選挙区が多く存在しました。18世紀イギリスの選挙の状況について、WA・スペックは以下のように述べています。

 

18世紀イギリスの各州における権力の所在を目に見える形で示したのが選挙だった。州社会のリーダーだった貴族(訳注=狭義には、公・侯・伯・子・男の5段階の爵位保持者)や有力なジェントリ(訳注=爵位はないが、バロネット以下、ナイト・エスクワイア・ジェントルマンの4段階に分かれ、有爵貴族とともに土地所有を基盤とした支配層を形成した)は、巡回裁判や四季裁判所、あるいは特別に招集された集会で、次期議会で州選出議員となるべき候補者の一本化を図った。そこで全員の意見が一致すれば、選挙戦とはならなかった。州の有権者の大多数を構成する年価値40シリング(2ポンド)以上の自由土地保有者には、州の実力者たちが指名した候補に対立候補を立てることなど考えもおよばなかった。 

(WA・スペック著、月森左知、水戸尚子訳『ケンブリッジ版世界各国史:イギリスの歴史』創土社、2004年、pp.12-13. [文中、縦書きのため漢数字だった部分はアラビア数字に改めた。])

 

 一方で、新しい都市は発展しているにもかかわらず、議員選出のための特許状を得られないところが少なくありません。こうした矛盾が急激に顕在化したのが産業革命の本格化した18世紀末から19世紀初めごろでした。それまでせいぜい数千人程度の人口だった町が数万、数十万の都市に発展していくのに議員を選ぶことができないにもかかわらず、一方で田園地帯を拠点とする地主や貴族たちは自分たちの自由になる選挙区をいくつも持っていて国政に影響力を行使できるという事実は、新興の都市を基盤としている産業資本家をいらだたせます。このような行き過ぎた不公正が、1832年の第1回選挙法改正では改められます。腐敗選挙区は廃止され、選挙区の再編が行われたわけです。

世界史の単なる「暗記事項」として読み飛ばしてしまうとあまりイメージできない事柄も、より深く理解すると、「それがどのようなことなのか」、「なぜそのようなことが起こるのか」といったことが動きをもって生き生きとイメージできるようになり、むしろ記憶として定着すると思います。

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古代ギリシアのアテネで登場する、クレイステネス改革のうち「血縁による4部族制から地縁による10部族制へ」というのが、どうも受験生にはわかりづらいらしく、「どういうことですか?」という質問を受けることが良くあります。

基本的に、こうしたことに疑問をもって確かめようとする人は物事を具体化して考えようとイマジネーションを駆使する人なので、学力は伸びます。勉強は「勉強をするから伸びる」部分もありますが、「普段からの思考で自由な想像力を駆使しているか」がとても重要です。「こんなことをしたらあの人は怒るかな」とか、「朝嫌なことを言ったからお母さんは今どんな気持ちでいるかな」など人の気持ちを慮ったり、将来の計画・予測を紙に書くことなくある程度頭の中で行うといったことが日常的にトレーニングできている人は、勉強をする際にも、1を学習するにあたって2も3もつかまえにいこうとするので、1だけを得る人よりも効率が良いのでしょう。ですから、一見無駄と思えることでも切り捨てずに取り入れられるものは取り入れていくという行為が意外に大切です。トイレの中での沈思黙考が知識に厚みを加えるかもしれません。

脱線しましたが、古代アテネの様子については史料が限られていることもあり、特にこのクレイステネス改革の意味付けについては学説上もまだ議論の余地があります。ですから、正確に「これはこうなんです」ということはできません。むしろ、学説的には誤っている部分もあるかもしれませんが、「このように理解すればすっきりする」といった理解の仕方はあります。

まず、「血縁に基づいた4部族制」というものを考えてみたときに、血縁に基づいた一族の中では、一族の長とか、部族内の立場がものをいいます。たとえば、日本の話になってしまいますが、蘇我氏の中に蘇我馬子に反抗してやろうという奴は(原則として)出てこないわけです。すると、アテネは直接民主政であるにもかかわらず、実際には一族の意向が反映される結果となりがちです。本当は自分の家の近くに子どもが通う学校が欲しいのに、長の家にも年頃の子どもがいるので長の家の近くに建てようという意見を一族の相違として反映させる、みたいな。(あくまでもたとえです。)

これに対して、「地縁的な10部族制」にこれをあらためた場合、どうなるのでしょう。クレイステネスはアテネを地域によって百数十のデーモス(区)にわけ、市民をこのデーモスごとに登録しました。これにより、アテネ市民は血縁的な従属関係を離れたと考えられています。あくまでもたとえ話になりますが、同じ土地に住んでいる関係上、これらの人びとは共通の利害関係を持つことが多いです。すると、上記の例でいえば、「一族の長は長の家の近くに学校を建てることに賛成しろっていうけど、おれは〇〇デーモスの近くに住んでいるからうちの近くになるようにデーモスのみんなで意見を合わせよう」っていうようなことが出てくるわけで、これによって血縁関係に縛られずに自分の利害で考えるより民主的な関係が成立するわけです。

ちなみに、上記に書かれていることは厳密にいえば、ウソです。たとえば、デーモスへの登録は、その後居住地がどこに変化しても、祖先が登録したデーモスの市民として登録されます。また、10部族制は単一の地域から作られるのではなく、市の中心部・内陸・海岸の3地域から複数のものを組み合わせて1部族とするので、全ての人が同一地域に住んでいるわけでもありません。一方で、学説上、クレイステネスがデーモスを設置したことが、アテネの政治により民主的な性格を与えたということは定説となっています。しかし、なぜそれが民主的な性格を有したかという仕組みの部分ではまだ複雑な議論があります。ですが、それを高校受験生の段階で全て理解していたら勉強が間に合いませんし、どうしても知りたければ大学に入ってギリシア史を専攻すればよい、あるいは大人になってから専門書を買って読めばよいだけのことです。とはいえ、単に用語として「4部族制・10部族制」と言われても、実感に乏しく、覚えたとしてもそれがストーリーとしてスッと頭に入ってくることはありません。ですから、多少誇張した嘘のたとえ話であっても「それまでは血縁に基づく4部族制で、一族の意向を気にしなければならなかったのが、クレイステネスがデーモスを設置し、地縁に基づく10部族制に再編したことで、より民主的な政治へと変化し、これはオストラキスモス(陶片追放)や500人評議会設置と同様に、アテネの民主政を促進した。」と理解した方がストーリーとしてはすっきりします。もっとも、このように理解した時には、「どの部分が嘘なのか(上記で言えばたとえ話の部分)」ははっきり理解しておく必要があります。(そうしないと論述などで嘘を書いてしまう可能性があるので。)しっかりと詳しいことが知りたいという場合には、クレイステネス改革については専門書をお読みになるとよいかと思います。

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