2010年の東大大論述は、中世末から現代にかけてのオランダ人(とオランダ系の人々)が果たした世界史に対する役割を問う問題でした。一つの民族や国について長期にわたってその歴史を概観させる出題としては、たとえば2001年のエジプト5000年史がありますが、2010年の設問でも、単なる「オランダ史」を書けということではなく、「世界史」という枠組みの中で、他の民族や国家とどのような関係、つながりを持ってきたのかについて述べなくてはならないという点については共通しています。そのあたりが、2001年のエジプト史を問う設問では丁寧に示されていたのに対し、2010年のオランダ史の方では「役割」という語に集約されているので、解答を作成する受験生は注意が必要だったかと思います。
【1、設問確認】
・オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について論述せよ
・中世末から現代(国家をこえた統合の進みつつある)までの展望において
・20行以内(600字以内)
・指定語句
:グロティウス / コーヒー / 太平洋戦争/ 長崎 / ニューヨーク / ハプスブルク家
マーストリヒト条約 / 南アフリカ戦争
:中世末から現代までとなっていますが、それでは中世末とはいつごろかということになります。オランダの成立はリード文にもあるように16世紀末ですが、当時はすでにルネサンスを経て宗教改革が信仰している時期であり、中世末とは言えません。一般に、ヨーロッパ史における中世というのは、西ローマ帝国の滅亡の頃(5世紀ごろ)からルネサンスの本格化するまで、遅くとも大航海時代や宗教改革が始まる前と考えるのが妥当で、これらが始まってしまうとそれは中世というよりは近世と呼ばれることが多いです。これは、中世ヨーロッパの世界観やシステムが、これらの出来事(ルネサンス・大航海時代・宗教改革)によって大きく変わるからで、だからこそ教科書や参考書は近世の始まりの部分にこれらの出来事を配置しているわけです。(もっとも、こうした時代区分は地域によっても変わります。)
さて、そうだとすれば、オランダにとっての中世末とはいつごろかということですが、一般的にヨーロッパの中世後期が百年戦争の展開された15世紀ごろまでということを考えても、エラスムスがルネサンスの人文主義とルターの宗教改革を結ぶ人物であることを考えてエラスムス以前だとしても、13~15世紀ごろと考えるのが妥当ではないでしょうか。だとすると、本設問はオランダの役割について述べよ、と言いつつも毛織物産業の中心地として発展した中世のフランドル地方が発展する頃からを想定していると考えて問題ないと思います。
フランドルは英語では「フランダース」となり、かの有名な『フランダースの犬』の舞台ともなった土地ですね。パ、パトラッシュゥ(涙)
また、フランドル地方は正確にはネーデルラント南部にあたり、現在のオランダよりはむしろベルギーを中心とする地方になりますが、本設問の対象として含んで問題はありません。地理的には、フランドル地方はオランダ南部やフランス北部を含む地方になります。(下の地図の黄色い〇で囲んだあたりが概ねフランドル地方です。)
本設問の対象は「オランダ、およびオランダ系の人びと」とされており、ベルギー・オランダ両国と文化的・言語的にかかわりが深く密接に結びついたフランドル地方を対象としても全く問題はありません。
また、後述しますが、本設問ではオランダの人びとの世界史における「役割」について書けと言っておりますので、単にオランダの政治経済史を述べるだけでは不十分なので、この点についても注意するべきかと思います。
【2、オランダ史を概観しつつ、指定語句を配置する】
:設問の要求する時期は13世紀頃~現代(出題されたのが2010年)とすれば、ざっとみて800年強を対象とするわけで、2001年東大のエジプト5000年の歴史と比べればマシなものの、かなり長い期間についての記述が要求されているのは間違いありません。単純計算で1字につき1.3年分を示さなければならないwわけですから、細かいディテールにこだわりすぎるよりも、オランダ史の大きな流れをとらえた方が、間違いが少ないのではないかと思います。そのように考えた上で、オランダ史の大きな流れを概観するのであれば以下のようなものになると思います。
① フランドル地方と毛織物産業の発達
② 宗教改革とオランダの独立
③ 海洋国家オランダの発展
④ イギリスとの抗争と衰退
⑤ フランス革命後の混乱
⑥ ウィーン体制とベルギーの支配
⑦ ベルギーの独立と産業革命
⑧ 帝国主義時代における植民地経営と相対的な国際的の地位低下
⑨ 第二次世界大戦と戦後の植民地独立
⑩ ヨーロッパ統合の担い手として
⑪ 多極共存型民主主義とその限界
こんな感じでしょうか。現代史の部分は分かりにくいところもあるかもしれませんが、それ以外のところはご覧になれば「あー、なるほどな」とか、「教科書で見たことあるわ」と感じるところがほとんどかと思います。ですから、本設問は「難しすぎて全然とっかかりが見えないや」という設問ではなく、「基礎的な事項をしっかり示すことができればそれなりの点数は来る設問」です。第2問、第3問をしっかりと取れれば、この第1問の大論述でそれなりの点でも十分に合格点が取れると思います。逆に、このレベルの論述で手も足も出ないということになりますと、むしろ第2問、第3問もおぼつかないということになります。(特に、前半部分の①~④あたりが書けない場合には基礎から固めるべきです。)その場合には大論述対策に力を入れるよりは、むしろ共通テスト対策や私大対策を通して知識面をしっかりと充実させていった方が力がつくと思います。
さて、上記オランダの歴史の流れと時期、関連する指定語句を整理していくと、概ね以下のような表になります。もっとも、指定語句の配置は「だいたいこのあたりで使えるかな」という配置ですので、他のところで使えるものもあると思います。
これを見ると、特にイギリスとの抗争に敗れて衰退する17世紀末ごろから、フランス革命ならびにナポレオン戦争の混乱の時期、ウィーン体制期あたりの指定語句がすっぽり抜けていることに気が付きます。このあたりは、教科書でもオランダを意識しながら学習する部分ではなく、オランダは周辺に追いやられがちですから、受験生は気づきにくく、まとめにくい部分です。逆に、前半部分は指定語句も豊富で、教科書でもよく出てくる部分ですので、受験生は比較的書きやすかったのではないでしょうか。おそらく、17世紀後半から19世紀にかけてがきちんとかけたかどうかで差がついたのではないかと思います。また、現代史も手薄になりがちな部分になりますが、これについては設問で念押しされていることから、受験生が気づかないということはないと思います。あとはどれだけの知識を持っているかで差のついてくる部分になりますね。
【3、オランダが世界の歴史に果たした役割について考察する】
:本設問では、オランダ(およびオランダ系の人びと)が果たした世界史における「役割」について述べることが重要なポイントになります。東大の大論述はこの手の設定が好きです。常に世界史における意義・役割は何かということを問いかけてきます。このことについては、古い記事ですが以前に東大世界史大論述出題傾向②でもお話をしました。たとえば、2007年、2005年、2000年の大論述などはこうした意義・役割をわりとストレートに問う設問でした。近年は意義・役割といった表現ではなく、変化・変遷・変容といったことばで表現されることが多いですが、いずれにしても東大大論述では常に時間軸・空間軸双方における「つながり」が意識されているということは忘れずにおいた方が良いでしょう。また、「役割」といった場合、その分野は多岐にわたります。オランダというと真っ先に頭に浮かぶのは経済的役割ですが、それ以外の分野(政治・文化・社会など)についても意識する必要があります。以上のことを踏まえて、2で示したオランダ史の流れとオランダの世界史における役割(言い方を変えれば世界に対して与えた影響)は何かを順にまとめていきたいと思います。
Ⓐ バルト海・北海商業圏の重要拠点
:オランダとして独立する前から、ネーデルラント、より正確に言えばフランドル地方は、毛織物産業によって商業の発展した土地でした。11世紀頃からイングランドの羊毛を原料として優れた染色技術を用いてつくられたフランドル産の毛織物取引は遠隔地商業を活発化させます。その中心地はブリュージュ(現ブルッヘ)やガンなどのフランドル都市であって、これらの都市は北ドイツのハンザ同盟諸都市と取引する中で発展していきます。特に、ブリュージュにはハンザ同盟の商館が置かれ、大きな役割を果たしました。
Ⓑ 百年戦争の原因
:世界史教科書などでもよく出てくる部分になりますが、毛織物産業の発展したフランドル地方は、英仏両国で王権の伸長が見られた14世紀から15世紀にかけて、両国の抗争の的となりました。また、同地方はフランドル伯の治める土地でしたが、婚姻関係から14世紀には本領をブルゴーニュ地方におくブルゴーニュ公(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)の領地となりました。15世紀に入ると、フランス国内でブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が起こり、ブルゴーニュ公はイングランドに接近し、フランス北部からフランドル地方にかけては、一時このイングランド・ブルゴーニュ公の同盟勢力の支配下に置かれました。
Ⓒ イングランド(イギリス)の毛織物産業発展の要因
:イングランドは、フランドル向けに輸出する羊毛生産地としてフランドル地方と密接な関係にありました。また、百年戦争中にはイングランドと同盟を結んだブルゴーニュ公の支配地であったことから両地域の関係はさらに深まりましたが、最終的に百年戦争がイングランドの撤退と、フランス王家とブルゴーニュ公の和解によって終結したことから、イングランドでは自国での毛織物生産の需要が高まっていきます。元来、輸出向けの羊毛生産によって原料が豊富にあったこともあいまって、15世紀頃からイングランドでは毛織物産業が発達し、地域によってはマニュファクチュア(工場制手工業)も見られるようになります。これにともなってイングランドの荘園領主は第1次囲い込み(エンクロージャー)によって羊毛増産を目指し、テューダー朝のエリザベス1世の統治期には重商主義政策の下で保護されて、イングランドの最重要産業へと発展していきます。
Ⓓ 北部ヨーロッパのプロテスタント国家の一角
:宗教改革の進行する中で、ネーデルラントではゴイセンと呼ばれるカルヴァン派が勢力を拡大していきます。当時ネーデルラントを治めていたのは、婚姻関係からヴァロワ=ブルゴーニュ家よりこの地の統治を継承していたハプスブルク家でした。神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)のときにはハプスブルク家はヨーロッパにネーデルラントを含む広大な領地を有していました。
(Wikipedia「カール5世」より、一部改変)
その後、オーストリアと神聖ローマ皇帝位は弟のフェルディナント1世、スペインは息子のフェリペ2世に継承されますが、ネーデルラントはフェリペのものとされました。このフェリペ2世に対してネーデルラントのゴイセンがオラニエ公ウィレムを中心に起こしたのがオランダ独立戦争です。ネーデルラント諸州のうち、南部10州はこの独立戦争から離脱しますが、北部7州はユトレヒト同盟を結成(1579)して、ネーデルラント連邦共和国として独立します(1581)。その後も独立戦争は続きますが、1609年には停戦を達成して実質的な独立を達成し、ハプスブルク家の不利な状態で終結した三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約でその独立が正式に国際承認されました。
このようにして独立を達成したオランダは、北欧のプロテスタント国家の一角としてカトリック勢力に対抗する役割を担い、同じくプロテスタント国家のイングランドと協力関係を結ぶことになります。(エリザベス1世時代の1588年のアルマダ海戦はこうした文脈の中で起こります。もっとも、こうした英蘭の共闘関係は、17世紀に入ると商業上の対立を背景とした抗争から、同君連合による協力関係の再構築へと変遷を見せることになります。)
Ⓔ 海洋覇権の掌握と国際金融の中心、世界経済の一体化を進める
:イングランドとの共闘関係の中でスペインに対して優勢となったオランダは、1602年には世界初の株式会社とされる連合東インド会社を設立して海外へと進出します。こうした中、オランダの立場を擁護するグロティウスは『海洋自由論』のなかで公海概念のもとをつくり、後に著した『戦争と平和の法』とあわせて自然法・国際法の基礎を築いていきます。これも、オランダ人が世界史に果たした大きな役割と考えてよいでしょう。また、ポルトガルにかわりアジアの香辛料貿易を独占したことや中継貿易から得られる利益で17世紀前半の海洋覇権を手にしたオランダの首都アムステルダムは、国際金融の中心地として繁栄を極めます。
Ⓕ 経済的繁栄と文化の中心地
:フランドル地方またはネーデルラントは、その経済的繁栄からオランダの独立以前から文化の中心地でもありました。美術でいえば、初期のフランドル派が西洋美術史に与えた影響は極めて大きなものでしたし、オランダの独立後もレンブラント、フェルメール、ルーベンスなどのフランドル系のバロック画家たちが活躍します。また、オランダの宗教や文化に寛容な風土は、周辺から多くの学者を引き付けて、多くの文化人が活動しました。オランダのグロティウス、ホイヘンス、スピノザに加え、フランスからはデカルト、イギリスからはロックなどもやってきてかなりの長い期間滞在します。
Ⓖ ユダヤ人やユグノーの受け皿
:また、信仰の自由を求めて独立を達成したオランダは、1580年にポルトガルがスペインに併合された際に追放されたユダヤ人の逃亡先となり、さらに1685年にルイ14世がナントの勅令を廃止したことによってフランスから流出したユグノーの受け入れ先ともなりました。彼らが優れた商工業上の技術や人脈を有していたことも、オランダの商業上の発展に有利に働いていきます。
Ⓗ 大交易時代の終焉と衰退→植民地経営への転換
:17世紀後半に起こった3次にわたる英蘭戦争に敗れたこともオランダの国力を衰退させますが、この時期はアジアにおける大交易時代が日清両国の海禁策の進展や胡椒価格の大暴落をはじめとする香辛料の価値の低下により、オランダが衰退へと向かった時期でもありました。(もっとも、オランダは日本と交易を許された唯一のヨーロッパの国として、長崎の出島で取引を継続し、日本が海外の情報を手に入れる貴重な情報源となりました。)
こうした中で、ヨーロッパの国際政治や世界経済においてオランダが果たす役割は次第に小さなものになっていきますが、ジャワ島をはじめとするオランダ拠点においては、それまでの交易を中心とした利益の追求から、商品作物の栽培と輸出による利益収奪型の植民地経営への転換がはかられていきます。特に、1825年~1830年に発生したジャワ戦争(ディポネゴロ戦争)の鎮圧以降、ジャワでは総督ファン=デン=ボスの下、強制栽培制度が導入され、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物栽培がおこなわれていきます。この制度自体はその非効率性と現地での飢饉の原因と考えられたことから1870年ごろにはなくなりますが、ここから得られた利益はオランダの財政と産業革命を支えていくことになります。また、オランダの植民地経営はその後のアジア、なかでもインドネシアのあり方に大きな影響を与えていきます。
Ⓘ 世界大戦とオランダ
:オランダは、第一次世界大戦では中立を保ちましたが、同じく中立を宣言した第二次世界大戦ではドイツ軍に蹂躙されます。また、アジアでは米とともに1930年代後半からABCD包囲網と呼ばれる石油などの対日禁輸政策をとりますが、このことは太平洋戦争の誘発へとつながっていきます。太平洋戦争が始まるとオランダ領東インドは日本軍によって占領され、オランダ植民地当局に囚われていたスカルノは解放され、日本軍と協力しつつインドネシア独立への活動を展開していきます。日本軍が撤退し、ポツダム宣言受諾によって日本の降伏が決まるとスカルノは独立宣言を発しますが、これを認めないオランダとの間でインドネシア独立戦争(1945~1949)が始まり、これに勝利したインドネシアは独立を達成しました。
Ⓙ ヨーロッパ統合の担い手として
:第1次世界大戦に引き続き、第二次世界大戦でも中立を宣言したオランダでしたが、その国土はヒトラー率いるナチス=ドイツに占領され、蹂躙されます。戦後、フランスとドイツのあいだに存在する鉱物資源がこれまでの両国間の紛争のもととなってきたという反省と、戦後の経済復興を強力に推し進める必要性からヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立されたのを皮切りに、西ヨーロッパの経済的統合と、東側諸国に対抗する軍事同盟(西ヨーロッパ連合条約[ブリュッセル条約]や北大西洋条約機構[NATO])も形成され、西ヨーロッパの統合が次第に進められていきます。植民地を失い、経済的基盤をヨーロッパ本国のみで再構築する必要に迫られたオランダは、西ヨーロッパの政治的安定と経済復興を目的としてマーシャル=プランを受け入れた上で、欧州統合に積極的な役割を果たしました。その結果、ベネルクス三国の主要都市にはこうした欧州統合につながる組織の拠点が置かれることとなりました。ヨーロッパ経済共同体(EEC)から欧州連合(EU)にいたるまでその拠点はブリュッセルに置かれましたし、EUを成立させたマーストリヒト条約が調印されたマーストリヒトもオランダの都市です。
(Ⓚ 分断社会を抱える国家オランダと多極共存型民主主義の限界)
:これは、高校世界史のレベルでは出てこない話になるので、設問の解答としては特に書く必要はないものになりますが、本設問のリード文を見るに、何となく出題者がこのあたりのところを意識しているのではないかなと感じられたので、示しておきたいと思います。
かつては海洋国家として海外からの移民を受け入れ、宗教にも寛容だったオランダでは、多様な価値観が受けいられてきました。こうした中で、オランダでは「柱状社会」と呼ばれる宗派別、政治信条別の社会集団を形成しつつ、各集団から選ばれた政治的エリート同士が国家全体の利益のための妥協点を探る中でコンセンサスを形成する社会が形成されたと言われています。こうした社会の形成は1920年代ごろから形成が進み、1960年代までは継続したものの、その後は「柱」の融解によって表面上は見えなくなったと考えられています。
どういうことかと言いますと、1960年代までのオランダでは、政治や宗教的信条ごとに、それぞれの集団で全く別の(お互いに交わることが少ない)社会グループが形成され、これらのグループごとに政党、労働組合、教育、福祉などの系列化・組織化されていきます。さらに、各グループの構成員たちは日常生活のなかで強固なコミュニティを形成していきます。たとえて言えば、日本という社会の中に仏教グループとか、神道グループとか、右派グループとか、左派グループとか、中道グループのようなものが存在し、仏教グループは仏教グループの中で独自の政党、労働組合、教育・福祉組織を作り、仏教グループサークルとか、町内会的なもので日常生活に至るまで行動を共にする一方で、他のグループとの交流は乏しいという社会を思い描いてもらうと良いかと思います。こうした社会は、確かに多様性は許容されているのですが、それはお互いの価値観を融合させて混じりあっていく社会ではなく、「あんたの価値観はあんたの価値観で勝手にやってもらって構わない。私はこういう価値観だけど。」という「住み分け」によって維持されている社会です。
オランダ生まれのアメリカの政治学者アーレンド=レイプハルトは、オランダの柱状社会の比率をカトリック34%、社会主義派32%、プロテスタント21%、自由主義派13%と分析し、このような分断社会においては「多極共存型民主主義(consociational
democracy)」という、それまでの政治学で主に想定されていた多数決型民主主義とそこから導かれる多数派支配とは異なったアプローチが行われていると、オランダの政治社会を分析しました。オランダのようにそれぞれの価値観が生活レベルまで分断された社会においては、一部の多数派が物事を決定する方式ではなく(そもそも、各グループが小集団なので安定した多数派が形成されえない)、各グループの代表者同士のコンセンサス形成によって民主主義が維持されていると考えたわけです。こうした「多極共存型民主主義」の特徴はいくつかありますが、概ね以下の4つにまとめることができるとレイプハルトは主張します。
① 全てのグループの代表を政治の需要な決定に参画させること(大連立による政府)
② 相互拒否権(the mutual veto)
:一部の少数派が他のグループの合意を得ずに決定することを避けるため
③ 政治権力や公的資源の各グループへの比例分配
④ 各グループが独自性を維持するための高度な自立性
:各グループにとって決定的な事項についてはそのグループに決定権を与えるため
実際、現在のオランダでは30近い政党が選挙で表を争い、そのうち半数が少なくとも1議席を獲得するなど、議会における勢力は広範囲に分散しています。
オランダの主要政党
(https://jp.reuters.com/article/dutch-election-analysis-idJPKBN16G0VO、ロイター、
出典:Peilingwijzer[https://peilingwijzer.tomlouwerse.nl/p/laatste-cijfers.html])
ところが、これまではこうしたシステムで安定してきたオランダの民主主義は、近年の政治環境の変化、特に移民の増加によって揺らいでいます。オランダ統計局によれば、オランダの人口に占める西側諸国以外からの移民の比率は、1996年の7.5%に対して、2015年は12.1%へと上昇しています。現在、総人口1700万人のうち、約5%がムスリムだとのことです。(上記に引用したロイター記事より。Wikipediaによれば、総人口のうちゲルマン系のオランダ人が83%、それ以外が17%だそうです。)移民の増加は、これまでのリベラルな主流派からの有権者の離反を促す一方で、ポピュリズムに対する支持が拡大し、自由党(PVV)などの極右政党が勢力を広げています。移民とポピュリズムというテーマは、近年のドイツ、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領当選など、政治学の分野ではホットなテーマですので、こうしたことも出題者の方では意識していたのかもしれません。
ただ、Ⓚについては当然設問で要求されている内容とは思えませんので、基本的にはⒶ~Ⓙに注意しつつ、時系列に沿って解答をまとめていくことになるかと思います。
【解答例】
毛織物産業によるフランドル地方の発展は、遠隔地商業拡大や羊毛供給地イングランドの産業発達など周辺の商工業を刺激したが、その富をめぐり百年戦争の勃発ももたらした。宗教改革でゴイセンが増加するとオラニエ公ウィレムの下、ネーデルラント連邦共和国としてハプスブルク家からの独立を宣言し、イングランドと共闘した。その後東インド会社を設立し、香辛料貿易独占や中継貿易を通して世界貿易一体化の一端を担った。アムステルダムは国際金融の中心として繁栄し、国際法の礎を築いたグロティウスをはじめ、デカルトやレンブラントら文化人が活躍する場を提供した。新大陸植民地は英蘭戦争で奪われたが、ニューヨーク発展の礎となった。海洋覇権を失い、大交易時代が終焉した後も日本と長崎で取引を継続し、世界情勢を伝えた。ウィーン会議でオランダが失ったケープ植民地を追われたブーア人は南アフリカ戦争にも敗れて英の帝国主義政策に飲み込まれ、南アフリカ連邦のアパルトヘイトを支えた。ベルギー独立はオランダの経済的自立を促し、ジャワの強制栽培制度でコーヒーやサトウキビを生産させて得た利益を元に産業革命が進展した。植民地経営への転換を図る中で蘭領東インドを形成したが、太平洋戦争中に日本に侵攻され、これと共闘したスカルノがインドネシアを独立させた。植民地を喪失したオランダは欧州統合による経済の安定を図り、マーストリヒト条約によるEU設立に尽力した。(600字)
こんなところでしょうか。率直に言って、指定語句と設問の要求にややアンバランスさを感じました。数百年にわたるオランダの活動が世界史に果たした役割を述べるにあたり、ヨーロッパ周辺の遠隔地交易の発展や世界経済の一体化、現代における欧州統合を支えたというのはスケールとしてもテーマとしても問題ないと思うのですが、これらに対して日本との取引だの、ニューヨークだの、アパルトヘイトだのは局地的な事柄で、スケール的に別次元の話な気がします。日本との取引はオランダが展開した広範・長期にわたるアジア交易の一部にすぎないわけで、アジア交易を言うのにわざわざ長崎を指定語句にする必要を感じません。また、南アフリカ戦争についても何となく浮いているというか、とってつけた感がぬぐえません。自分もアパルトヘイトが廃止された時には多感な少年時代でしたし、インビクタスのDVDも持っていますが、何となく高校の世界史教科書に載っているオランダに関連する事項を縫い合わせてくっつけてみました感がしてしまい、すっきりしないバランスの悪さが残ってしまう気がします。まぁ、あまり細部にこだわりすぎても時間内に解答作れませんので、当日の受験生がすべきことは「役割」という部分から外れることなく、特に前半部分の取りこぼしがないようにまとめることだったのではないかと思います。