さて、今年で2度目の実施になります「大学入学共通テスト」です。昨年の共通テスト世界史Bでは史資料を用いた設問が多く出て、従来のセンター試験の出題よりもアタマを使わせる設問となっていたため、情報の整理を素早く行うことが苦手な人にとっては難しくなっていたことについては、昨年の問題解説を行った際にお話しをいたしました。
では、今年度はどうだったか。受験生の実感をつかむために、解説を作る前に時間を図って解いてみました。何分で解けたとかはここでお話しすることではありませんが、概ね、従来のセンター試験の問題を解くよりも3~5分は多くかかったように思います。曲がりなりにも歴史を専門にしている人間が解くのに3~5分余分にかかるわけですから、受験生であればかなりの負担感があったのではないでしょうか。
ですが、それでは問題が難しかったのかというとそういうわけではなく、時間がかかったのは設問の条件や情報の整理を注意深く行う必要のある個所で時間がかかっただけで、設問を解くにあたって必要な世界史の知識については、昨年度の設問よりもやや易化したのではないかと思います。これが何を意味するかといえば、ミスが怖いということです。知識面でそれほど難しいことが問われていないのであれば、一定レベルの知識を身に着けた受験生同士で差がつくとすれば、情報の読み取り違えや、注意不足による誤答などで差がつくことになり、今年の問題でも昨年と同じく、頭の中でだけ処理しようとすると答えを選ぶのに時間がかかる、またはミスをしてしまいがちな設問が多く見られました。特に、複数の要素を組み合わせた答えを選択肢の中から選ぶスタイルの設問では、確実に自分の選んだ選択肢が何だったのか、一つ一つチェックしながら解き進めることが大切だったように思います。全体としては、昨年と比べてとんがったところが少なくなった、ごくごくオーソドックスなタイプの設問だったように感じました。
1 ‐①
:下線部は、「解剖学、植物学、薬学」となっておりますので、これに関する書物を選ぶことになります。『本草綱目』は明の李自珍による薬学に関する百科事典です。明の時代の実用書には他に宋応星による『天工開物』や徐光啓の『農政全書』などがありますが、どれも頻出のものになりますので、覚えておくようにしましょう。
②‐北宋の司馬光が著した『資治通鑑』は歴史書なので×
③‐明の宋応星が著した『天工開物』は産業技術書なので× 産業技術とは具体的にどんなものかといえば、錬鉄、製紙、製陶などで、Wikipediaの『天工開物』を調べれば実際にどんなものか見ることができますので、イメージもわきます。
④‐梁の昭明太子による『文選』は詩文集なので×
(Wikipedia「天工開物」より)
2 ‐②
:空欄 ア はオランダの東南アジア拠点とあるのでジャワ島のバタヴィアなので、b。
3 ‐②
:隋の煬帝による高句麗遠征(612~614)は有名。この遠征に失敗したことなどが隋衰退の原因となります。一本釣りでも解けますが、丁寧に消去法で解きましょう。
①‐楽浪郡を置いたのは前漢の武帝。楽浪郡はその後も続きますが、4世紀に高句麗に滅ぼされました。また、唐の時代の朝鮮半島は新羅が支配しています。
③‐南京条約(1842)は清、イギリス間のアヘン戦争の講和条約(1840-1842)で、朝鮮は無関係です。清が朝鮮の独立を認めさせられることになるのは、日清戦争(1894-95)の講和条約である下関条約(1895)。
④‐朝鮮王朝は確かに科挙を導入しますが、科挙が始められたのは隋の頃とされていて、明の時代が最初ではありません。
4 ‐②
:ウラマーとはイスラーム世界の知識人のことですが、基本的にはクルアーンに基づくシャリーアやハディースに精通した法学者・神学者のことです。対して、スーフィーとは、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の修行僧のことを指します。ウラマーがクルアーンの一言一句とその意味するところにこだわるのに対して、スーフィーは儀式や感覚的な神との一体化を追求します。史料を読めば、ハサン=ブン=イーサーがウラマーであるのは明らか(「法学者やハディース学者が彼を高く評価」、「彼のハディース講義は…」など)ですので、選ぶべき記号は「あ」と「Y」の組み合わせである②になります。
5 ‐②
:ネストリウス派はエフェソス公会議(431)で異端とされて以降、イランを経由して中国にまで伝わり、景教と呼ばれます。
①‐サファヴィー朝はシーア派の十二イマーム派を奉じる王朝です。
③‐カニシカ王はインドのクシャーナ朝の王で、第4回仏典結集を行ったことで知られています。
④‐イスラームと融合してシク教になるのはヒンドゥー教です。シク教はカビールの改革の影響を受けたナーナクが創始しました。
6 ‐④(基本問題)
:ウマイヤ朝が「アラブ帝国」と呼ばれアラブ人に免税特権を与えるなど優遇していたのに対し、アッバース朝がムスリムの平等を達成して「イスラーム帝国」としての性格を有したことは小論述などでもよく出題される基本事項です。その他の選択肢もアッバース朝の時代とはかけ離れています。
①‐バーブ教徒の乱(1848~1850)はカージャール朝の時。
②‐ダレイオス1世はアケメネス朝ペルシアの人物で、まだイスラーム教が成立していない。
③‐アフガーニーは19世紀の人物。
7 ‐①
:空欄 エ は、契丹と並んで『遼史』、『金史』に書かれているとあるので、金を建国した女真族であるのは明らか。猛安・謀克(ミンガン・ムケ)は金の時代の部族制度。
②‐ソンツェン=ガンポはチベットに存在した吐蕃の建国者。
③‐テムジンはチンギス=ハンのことでモンゴル帝国の創始者。
④‐冒頓単于は匈奴の人物。前漢の高祖、劉邦を白登山で打ち破ったことで知られる。
8 ‐③
:ダライラマ14世の亡命でも正解は選べますが、確実に消去法を用いた方が良いです。
①‐ワッハーブ派はアラビア半島のイスラーム改革運動。
②‐ガザン=ハンはイル=ハン国の君主でイスラームを受容した人物。
④‐北魏では3代太武帝の時に寇謙之の下で道教が国教化されたが、その後の文成帝の頃からは仏教が保護され、雲崗や竜門の石窟寺院がつくられた。
9 ‐①
:「あ」については、中国の魏の歴史書である『魏志』に現在の日本にあたる邪馬台国の記述があるので問題はないが、「い」のパスパ文字はモンゴルで行政官も兼ねたチベット仏僧パスパが考案し、かつモンゴルの公文書に用いられた文字であるため、「別の民族や集団」が記述したとはいいがたい。そのため正しいのは「あ」のみ。
10 ‐③(基本問題)
:空欄 ア はその直前に「ナポレオンの侵略がもたらした悲惨な苦難の記憶」とあるのでフランス、 イ はジブラルタルを奪った国になるのでイギリスです。ジブラルタルはスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約の際にイギリスに奪われました。ユトレヒト条約については→こちら
11 ‐③
:リード文には「スペインの最後の植民地」とありますが、厳密にはスペインの植民地は20世紀に入ってもアフリカの一部(スペイン領サハラなど)に維持されています。ですが、リード文では「アメリカ合衆国に奪われた」と書いてありますので、そのことを考慮すれば、ここでいう「スペインの最後の植民地」とは1898年の米西戦争で失われた植民地であることが分かります。
米西戦争の講和条約であるパリ条約で、スペインはキューバの独立を承認し、さらにフィリピン・グアム・プエルトリコをアメリカ合衆国に割譲しました。ですから、地図上からこれらに該当するものを選べばOKです。地図を見ますと、aはアルジェリア、bはタイ、cはフィリピン、dはペルーを指していますので、該当するのはフィリピンのcとなります。
12 ‐②
:史資料が示す、ソ連がミサイル基地を建設しようとしたことでアメリカとの一触即発の危機に陥ったとする内容から、このことがキューバ危機(1962)を指していることが分かります。そのやめ、空欄 ウ はキューバです。②のバティスタはキューバ革命においてカストロ・ゲバラによって倒される親米政権ですので、キューバについて述べているのは②が正解です。
①‐北大西洋条約機構は基本的に北米・ヨーロッパ(発足当初は西ヨーロッパ)を中心とした軍事同盟になりますので、キューバは参加していません。
③‐文章からは、ハイチ(フランス領サン=ドマング)を指すものです。
④‐ナセルはエジプトの大統領です。
13 ‐④
:設問自体がやや読み取りづらいので、丁寧に事実を確認していく必要があります。「この演説中で述べられている交渉相手国の首相」とは史料中にあるマクミラン首相のことです。マクミランはイギリスの首相なので、「交渉相手国の首相の国」は「い」のイギリスなのですが、本設問の史資料がキューバ危機についてのものであり、かつその後の核軍縮についての内容を示すものだということに注意する必要があります。
キューバ危機はソ連のフルシチョフとアメリカのケネディとの間で核戦争の危機を回避しますが、その後、米ソにイギリスを加えた3国間で部分的核実験禁止(停止)条約[1963、PTBT(Partial Test Ban Treaty)]が締結されます。この条約は地下核実験を除くすべての核実験を禁止するというものでした。この辺の事情が分かれば、マクミランがイギリスの首相であるということはマクミランの名前が分からなくても判断できます。また、史料中では「包括的な核実験禁止条約に関する早期の妥結を目指し…」となっていますが、実際に締結されたのはPTBTでしたので、締結した条約の内容は「Y」の「核実験の部分的な禁止」が正しいということになります。史料の内容と、その後実際に取り交わされた条約の内容が異なるので、その点に注意を払う必要があるやや難しい設問です。
また、包括的核実験禁止条約(CTBT:Comprehensive Nuclear Test Ban Treaty)が国連総会で採択されたのは1996年のことです。
14 ‐①
:ソ連は、中国との間に中ソ国境紛争(1969)を引き起こしています。
②‐ソ連はサンフランシスコ講和会議に出席はしていますが、条約は調印していません
③‐ソ連がクウェートに侵攻した事実はありません。
④‐アラスカはアメリカ合衆国がロシア帝国[当時はアレクサンドル2世]から購入した土地です(1867)。また、当時ソ連は存在していません。
15 ‐③
:文章中の空欄 ア は、その直後にコッシュートが活躍した時期とありますので、1848年の諸革命(諸国民の春)のことだということが分かります。この時期に起こったこととして正しいものは、ウィーン三月革命やベルリン三月革命など、ドイツの諸革命に続いて開催されたフランクフルト国民会議(1848~1849)です。
①‐ロシアで立憲民主党(カデット)を中心に臨時政府が建てられたのはロシア二月(三月)革命でニコライ2世が対した時のことで、1917年の出来事です。
②‐ 青年トルコ革命は1908年。よく出ます&使います。
④‐ディズレーリはイギリスの首相で、オーストリアの人物ではありません。ディズレーリがメッテルニヒであれば、ウィーン三月革命(1848)のことを指す文章になります。
16 ‐④
:組み合わせタイプの設問としては比較的易しい問題です。空欄 イ は「1881年にエジプトで民族運動を起こしたのものの鎮圧され」とありますので、ウラービーのことだと分かります。ウラービーは1881年~1882年にかけて「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げ、当時スエズ運河会社を買収(1875)してエジプトへの経済的搾取を行っていたイギリスに抵抗する民族運動を起こしました。(ウラービーの乱、1881~1882) この歴史的事実を知っていれば組み合わせも容易に解けます。
17 ‐②
:少し文章の読み取りが必要となります。空欄 ウ は「1880年代というと、領事裁判権を含む、日本に有利な ウ を結んだ時期である」とありますので、日本が日本にとって有利な内容の条約を他国に結ばせたものであると分かります。この条件に合うのは日朝修好条規(1876)です。日朝修好条規は1870年代なので少し変な感じもしますが、もう一つの選択肢である日清修好条規も1871年ですし、日清修好条規は日本との対等条約なので、選ぶとすれば日朝修好条規しかありません。
また、1880年代は日本が欧米と結んだ不平等条約の改正に向けて働きかけを強めた時期でもありました。対して、南樺太の領有が問題となるのは日本が日露戦争に勝利してポーツマス条約(1905)を締結した頃になります。
18 ‐③
:「表」より、1700年の中国の人口15000万人、1800年の中国の人口は32000万人ですので、1800年の時点で1700年の時点の人口の2倍は超えています。清の時代の人口増加が、サツマイモやトウモロコシといった新大陸由来の作物の導入と山間部開発にあったことはよく知られていますので、これも問題はありません。たしかに、当時は地丁銀の導入で丁税が廃止されたことが統計上の人口増加を急激にさせる一因となったともいわれていますが、そのことは「トウモロコシやサツマイモの普及が人口増加を支えた」という事実を否定するものでも、相反するものでもありません。
①‐マラッカ王国の繁栄していた時期は14世紀末から16世紀初めごろで、1800年代には存在していません。
②‐インドでヴィクトリア女王がインド皇帝に即位(インド帝国の成立)したのは1877年のことで、19世紀後半です。
④‐1900年時点のインドの人口は28000万人、ヨーロッパの人口は27100万人とありますので、「表」の内容と食い違います。
19 ‐②(やや難)
:読み取りの面でも歴史的知識の面でもやや細かい作業・知識を求められる設問です。まず、1850年時点の東南アジアの人口は「表」より4200万人、日本の人口は文章より3071万人(推定)です。対して、面積については「日本の面積は…東南アジアのおよそ11分の1」とありますので、東南アジアと日本の面積比は11:1となります。複雑な計算は必要なく、もし東南アジアが日本と同じ人口密度を持つとすれば日本の人口の11倍の人口が必要になり、人口密度は日本の方が高い(東南アジアの方が低い)ことがわかりますので、選ぶべきは「あ」です。間違えて現在の人口で判断したり、複雑な計算をして時間を浪費することがないように注意が必要です。
また、日本が北部仏印に進駐するのはフランスがドイツに降伏した後(その後のフランスではペタンのヴィシー政権が成立)で「X」の文章は誤っているので、正しい文章は「Y」となります。
20 ‐④(基本問題)
:単純な知識問題です。オーストラリアの先住民はアボリジニー、ニュージーランドはマオリ。
21 ‐③(読解問題)
:史料の文章を正しく読めばそれでOKです。
22 ‐③
:オセアニア地域の探検者としてはオランダのタスマン[17世紀]やイギリスの(ジェームズ=)クック[18世紀]が知られています。
①‐白豪主義が廃止されるのは1960年代~1970年代にかけてです。
②‐ハワイが併合されるのは1898年、アメリカ合衆国によってです。最近は最後の女王リリウオカラニの名前も以前と比べて出てくるようになりました。
④‐カナダはイギリス最初の自治領(1867)です。ニュージーランドが自治領になるのは1907年。
23 ‐②
:標準的な問題ではありますが、文章の読み取りには注意が必要です。オーウェルの史料では「この10年に満たない数年間、民主的と言われる国々はファシズムに負け続けるという歴史を歩んできた。例えば、日本人の思うままの行動が容認されてしまった。」とあります。本史料はスペイン内戦(1936~1939)の最中に書かれたとありますので、「この10年に満たない数年間」に「日本が行った行動」は、概ね1920年代の後半から1930年代の後半までの間に起こった出来事である必要があります。時期・内容ともに当てはまるのは満州国の建国(1932)のみです。
①‐ノモンハン事件は1939年5月の出来事で、スペイン内戦(スペイン内戦は同年4月まで)の後です。また、ノモンハン事件はソ連軍の勝利に終わっていますので、「日本人の思うままの行動が容認されてしまった。」という史料の内容とも食い違います。
③‐日本が台湾を獲得するのは日清戦争(1894~1895)後の下関条約(1895)です。
④‐日本の真珠湾攻撃は1941年のことで、スペイン内戦の後です。
24 ‐①
:文章の表現に注意が必要ですが、設問としては難しくありません。オーウェルの言う「ヒトラーは権力の座に上りつめ、あらゆる党派の政敵の虐殺に手を付け始めた」とはどういうことかということですが、これはヒトラー内閣の成立とその後の共産党弾圧を示しています。共産党は、当時多くの政治党派と敵対関係にありましたので、そのことを「あらゆる党派の政敵=共産党」とオーウェルは表現したわけです。
②‐九か国条約はワシントン会議(1921~1922)の中で締結された、中国の領土保全、主権の尊重などを定めた条約なので、エチオピア問題とは無関係です。
③・④‐第一インターナショナルはマルクスが主体となって作られた共産主義者の団体ですが、これが成立していたのは19世紀後半(1864~1876)で、ヒトラーの「虐殺」の対象とはなり得ません。
25 ‐①(やや難)
:歴史的な知識というよりは、読解力・情報整理の面で多少注意が必要な設問です。事実に対する異なる見方と根拠を正しく選ぶ必要があるので、ファシズムまたはファシズム国家の特徴や行動とは何かが理解できていないと正確に根拠を選ぶことができません。また、組み合わせの仕方もかなり多く出てきますので、情報を素早く整理する力が問われます。重要なことは、Z(軍事力による支配圏拡大を行わなかった)を含む選択肢を全て排除できることに気づくかどうかです。Zは、そもそも歴史的事実と異なる(日本は実際には軍事力により支配圏の拡大を行っている)とはっきりわかりますので、どちらの見方をとったとしても根拠としては不適切です。すると、実質的には選択肢としては①、②、⑥の3択となります。
W:日本は治安維持法(1925)で共産主義者を弾圧したり、ドイツと防共協定を結ぶ(1936)など、明らかに共産主義に対抗する運動に加わっています。また、これはファシズム国家の特徴を示す内容ともなります。
X:国民社会主義は国家社会主義ともいわれ、ナチス(国民[国家]社会主義ドイツ労働者党)とも深いかかわりを持ちますが、日本が国家としてこれを掲げた事実はありません。
Y:日本の軍事独裁体制における形式上(とはいえ、完全に形式だけのものというわけでもないのですが)の指導者は天皇で、政策立案者は軍部とかかわりの深い人物が首相となる形で進められていきます。また、日本では1932年の五・一五事件で犬養毅首相が殺害されて以降、政党内閣ではなくなっていますので、「政党の指導者」が独裁者として権力行使をしているわけではありません。この点は、ナチスという政党の指導者であるヒトラーが総統(フューラー)として権力を握ったドイツ、ファシスト党の指導者として政権の座に就いたムッソリーニのイタリアとは異なりますので、これを根拠としてヨーロッパのファシズムとは異なると議論することは可能です。
以上の理由から、「あ‐W、い‐Y」の組み合わせとなり、①が正解です。
26 ‐④
:空欄 ア はモスクワ大公国のイヴァン4世です。イヴァン4世は自分の息子を錯乱して殴り殺したことで知られています。ただ、このエピソードはそこまで有名なものではないので、実際の判断は「ロシアで初めて正式にツァーリを称した」とか「雷帝」などの部分で判断することになります。また、イヴァン3世もツァーリを称しますが、これは自称であって正式に(皇帝を意味する称号として公式に)称したものではなかったと世界史ではされています。
①‐ステンカ=ラージンの乱(1670~1671)はロマノフ朝ロシアの成立後、皇帝アレクセイの時です。この反乱の約100年後に起こるプガチョフの乱(1773~1775、エカチェリーナ2世の時)との区別はしっかりつけておきましょう。
②‐ロシアでギリシア正教が国教とされるのはキエフ公国のウラディミル1世がバシレイオス2世の妹アンナを妻としてからのことです。
③‐モスクワ大公国はキプチャク=ハン国の支配を受けてきましたが、この「タタールの軛」を脱して独立するのはイヴァン3世の時です。(1480)
27 ‐⑤
:空欄 イ は、明の建国者とあるので洪武帝(朱元璋)です。朱元璋の徴税政策、土地管理政策としては賦役黄冊や魚鱗図冊が知られています。対して、一条鞭法は明の末期、万暦帝時代の宰相張居正が導入したものです。
また、税制一般の歴史について述べたX~Zの文章については以下の通りです。
X‐誤。ザミンダーリーは徴税の際に地主(ザミンダール)をはさむ制度。農民からの直接徴税はライヤットワーリー制。(ザミンダーリー制とライヤットワーリー制について→こちら)
Y‐正。騎士身分はエクイテスとも呼ばれます。
Z‐誤。イギリスは印紙法を撤回します。
28 ‐②
:二つの根拠から、②が正しいと判断できます。一つ目は、ドイツ騎士団を撃退した将軍を英雄視する映画が上映禁止となっていることから、対ドイツ関係を気遣ってのことだと判断できます。また、独ソ不可侵条約が締結されたのは1939年、ヒトラーがこれを破棄して独ソ戦が始まるのが1941年なので、上映禁止期間とも一致します。
①‐世界恐慌は1929年で時期が離れていますし、ソ連は世界恐慌の影響を受けていません。
③‐コメコン(経済相互援助会議、1949結成)は戦後の冷戦下で組織されるものなので、時期が不適切です。
④‐十月革命(十一月革命)は1917年のこと。その後の内戦とはロシア帝国の残党との内戦や、これに介入した諸外国との対ソ干渉戦争を指しますが、これも1922年までには終結しますので不適切です。
29 ‐③
: 800年にローマで戴冠したとあるので空欄 ア の人物はカール大帝(シャルルマーニュ)。カールがアーヘンに神学者アルクインや歴史家アインハルトらを招いて文芸を奨励したことはカロリング=ルネサンスと称されます。
①‐フン人のアッティラがヨーロッパに撃退されるのは、カタラウヌムの戦い(451)やレオ1世の説得(452)、アッティラの死(453)を経てからのことで、カールの時代とは時期が異なります。
②‐イングランド王国はそもそも成立したのが829年、ウェセックス王エグバートによる七王国(ヘプターキー)の統一によるものです。カールがこれを征服した事実はありません。
④‐文章はメロヴィング朝のクローヴィスを指すものです。
30 ‐②
:標準的な知識と読み取りが要求される設問です。空欄 イ はイングランド王ジョンから大陸領の大半を奪ったとあるのでフィリップ2世。文より、南にはメロヴィング朝、カロリング朝の王を、北にはカペー朝の王をとあるので、南の空欄 ウ にはメロヴィング朝またはカロリング朝の王が入ります。今回はたまたま図の下方が南でしたが、必ず方角を指す記号は確認してください。もし、今回方角を確認せずに何となく上が北、下が南と判断して問題を解いて正解していた場合、それは運が良かっただけかもしれません。設問によっては方位記号をずらしてくることも十分考えられるので、丁寧に確認しましょう。
選択肢で空欄 ウ にはいる候補であるもののうち、ロロはノルマンディー公国を建国したノルマン人、ピピン(小ピピン)はカール大帝の父でカロリング朝の創始者ですから、選ぶべきはピピン。
31 ‐③
:フィリップ2世~ルイ9世までの時期は、おおよそ12世紀末~13世紀の後半です。これらの王の統治期として重要な出来事は以下の通り。
・第3回十字軍への参加(フィリップ2世)
・ジョンとの抗争と大陸領の回復(フィリップ2世)
・インノケンティウス3世からの破門(フィリップ2世)
・アルビジョワ十字軍(フィリップ2世~ルイ9世)
・ルブルックの派遣(ルイ9世)
・第6回、第7回十字軍(ルイ9世)
①‐アナーニ事件はフィリップ4世の時(1303)
②‐ジャックリーの乱は百年戦争中の14世紀後半(1358)
④‐トリエント公会議は対抗宗教改革のために開催(1545~1563)
32 ‐③
:清では、遷海令の解除後も、中国人の海外渡航は原則禁止で、取引等で渡航する場合にも厳格な制限が課せられていました。ただ、設問としては消去法で解くのが良いかと思います。
①‐合衆国の1882年移民法は中国人移民を禁止する内容でした。
②‐興中会はハワイで結成(1894)。東京で結成されたのは中国同盟会(1905)。
④‐マレーシアではマレー人と中国系移民との対立からシンガポールの独立につながっていきます。優遇政策はマレー人に対してとられたもので、ブミプトラ政策と呼ばれます。
33 ‐②
:空欄 エ は乾隆帝が征服したということと、ムスリムが多いという内容からジュンガル部であると分かります。ジュンガル部は制圧された後、新疆として理藩院の監督下に置かれます。新疆の位置は地図中のbが適切なので答えは②
34 ‐③
:山西商人の活動が活発化するのは明の時代なので、空欄 オ は「い」の明。彼らは、遠隔地商業を円滑に進めるために各地に会館や公所を設置しますので、適切な文は「X」。また、明の都は金陵(南京)または北京で、黄河と大運河の交差する地点ではないので「Y」は明らかに不適。
取り急ぎ、作成いたしましたが、まだ印刷してのチェック等はしておりませんので、もしかすると誤り等があるかもしれません。後ほどもし誤り等があれば修正していきますが、ご利用は自己判断でお願いいたします。