2022年の東大大論述は、8世紀~19世紀にかけてのトルキスタン史を問う設問でした。東大では、このように特定地域について長いスパンにわたっての歴史を問う出題がたびたび出題されています。たとえば、以下のようなものが例として挙げられるかと思います。

 

2011年:アラブ=イスラーム文化圏[7-13世紀]

2010年:オランダ(系)の人々の役割[中世末~現代]

2001年:エジプト史[文明発祥~20世紀]

1999年:イベリア半島史[3世紀-15世紀]

1995年:地中海周辺地域史[ローマ帝国成立~ビザンツ帝国滅亡]など)

 

設問の要求はいたってシンプルで、トルキスタンにおける勢力の変遷と周辺地域とのかかわりを丁寧に書いていけば十分な内容の解答を用意できるかと思います。東大ではたびたびユーラシア大陸の広域にわたる交流・対立の様子を問う設問が出題されており、教科書や参考書などでも最近は中央アジアの様子を伝える情報量が拡大していることから、しっかりと勉強を進めた受験生であれば十分に対応できる標準的な設問だったのではないでしょうか。近年では京都大学でも立て続けに遊牧民族を取り扱った設問が出題されていたこともあって、今年は試験前にこんなことを言っておりましたが…かすりましたね。「中央アジア史については以前よりも手厚く勉強しておかないと特に国公立は差がついてしまうな」ということは受験生、あるいは受験指導をされている先生方の共通認識としてあったのではないかと思います。また、東大では2019年にオスマン帝国史を出題しており、そうした面でもトルコ民族にかなりの関心が払われていることがうかがわれます。ただし、ひとことで「トルキスタン」といっても、この土地にはイラン系、モンゴル系など様々な民族が流出、流入、興亡を繰り返している点には注意が必要です。「〇〇人」という時に、その民族的な背景がどのようなものかまで深く理解しながら学習を進めているかどうか。一見、そこまで難しくないように見えて、そうした学習が不十分だとじわじわとボディーブローのように効いてくる問題です。やはり、表面的な理解ではなくてしっかりとした内容的な理解までできているかどうかが東大では点数の差となってくるように思います。

 リード文では「オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心」であり「文化が交錯する場」であったこと、「トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれ」るようになったこと、「同地(トルキスタン)の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出」したこと、「一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響」を及ぼしたことなどが紹介されているため、これらも解答作成の際には全体の大きな枠組みを作るための材料として活用することができます。

 

【1、設問確認】

・時期:8世紀~19世紀(7011900

・トルキスタンの歴史的展開について記述せよ

20行(600字)以内

・指定語句の使用(使用した語句に下線)

アンカラの戦い / カラハン朝 / 乾隆帝 / / トルコ=イスラーム文化 / バーブル / ブハラヒヴァ両ハン国 / ホラズム朝

 

:設問の指示はシンプルです。10年前、20年前であれば教科書や参考書のトルキスタンの記述が不十分であったことや、各大学でトルキスタンが出題されることがそれほど多くはなかったことなどから十分な準備ができなかった受験生も多かったのではないかと思います(そのあたりのことを考えて以前トルキスタンとはどういう地域かについては簡単にご紹介いたしました)が、近年の諸大学の出題傾向、教科書の記述等を考えれば、基本問題になるのではないかと思います。細かい内容となるとなかなか出てこないかもしれません。勉強量がそのまま反映される設問と考えてよいかと思います。

 記憶を掘り起こすのに苦労する設問ではありますが、上でも書きました通り、リード文の方に大きな流れ自体は示されていますので、これをヒントにすると良いでしょう。リード文から確認できる流れとしては以下の通り。

 

① オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心 / 文化が交錯する場

② トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれるように

③ 同地の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出

④ 一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響も

 

この流れに沿って指定語句をヒントにトルキスタン史を思い描くだけでも、それなりの内容は構築できるのではないかと思います。当然、抜けてしまう部分はあるので、そこをどう肉付けして埋めていくのかという点で力量の差が問われるのではないでしょうか。

 

【2、指定語句の整理】

:指定のスパンが非常に長いので、指定語句をチェックしてある程度の内容を確認しておく必要があるでしょう。

 

・アンカラの戦い

1402年に起こったアンカラの戦いは、オスマン帝国のバヤジット1世をティムールが打ち破ったことで知られる戦いです。ティムールはトルコ化したモンゴル系貴族の出身で西トルキスタンで自立して大帝国を築いた人物ですから、「トルキスタンで勃興し、周辺地域に影響を与えた例」として用いるべき用語です。

 

・カラハン朝

:カラハン朝を紹介する時の定番は「中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝」というフレーズです。カラハン朝の成立する時期は10世紀半ばですので、セルジューク朝(1038年に成立)よりも早いんですね。この知識は私大などの正誤問題でもよくキーとなる部分ですので注意が必要です。本設問では、トルコ化が進む過程で同地のイスラーム化が進展した一例として使うことになるかと思います。また、カラハン朝の滅亡には西遼(カラ=キタイ)やホラズム朝が関係していますので、そのからみでも使うことになるかと思います。実は、カラハン朝の滅亡に関する教科書や参考書の記述はかなり曖昧です。私大等の正誤問題では「カラハン朝は西遼に滅ぼされた」を根拠として選ばせるものが多く出題されるにもかかわらず、教科書や参考書によっては西遼だけでなくセルジューク朝やホラズム朝の影響について言及するものもあったりで、受験生を悩ませる部分です。(そもそも、そういった部分を正誤問題とするのはどうなんだろうと思いますが。)  このあたり、旧版の山川出版社の『改訂版世界史B用語集』では「11世紀中頃パミール高原を境に東西に分裂し、後セルジューク朝や西遼の支配下に入った。」となっておりましたが、新版の『改訂版世界史用語集』(山川出版社)では「王朝は緩やかな部族連合体であったため、11世紀には王族が各地で割拠した。それらは12世紀、カラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。」となっています(下の方に旧版と新版の用語集については引用しています)。

 教科書にはほとんど満足のいく記述はありませんので、これ以上の情報を手近で確認したい場合には、現状ではWikipediaの「カラハン朝」の記載が一番わかりやすいようです。「Wikipediaなんて!(蔑)」と思われるかと思いますが、こちらの項目は文献引用の仕方も丁寧ですので、その気になれば紹介されている引用を確認すれば裏付けも取れるかと思います(多分。時間あるときに私の方でも確認してみます)。こちらによると、カラハン朝は11世紀半ばに東西に分裂し、その後東西ともに一時セルジューク朝に臣従しました。臣従から脱した後、東カラハン朝は12世紀半ばに西に進出してきた西遼の支配下に入り、さらに後に西遼の王位を簒奪したナイマン族のクチュルクによって13世紀初めに滅ぼされます。西カラハン朝はその後もわずかに存続しましたがホラズム朝によって滅ぼされました。この話の内容であれば、各種教科書、用語集とも矛盾が生じませんし、もともと私が持ち合わせている知識とも大きな齟齬はないように思いますので、まず問題ないのではないかと思います。ちなみに、山川用語集の「カラハン朝」の項目は以下の通り。

 

(旧版)

 10世紀中頃~12世紀中頃 中央アジアのトルコ系イスラーム王朝。サーマーン朝を倒し、東西トルキスタンを支配、トルコ人のイスラーム化を促進した。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版、p.82

 

10世紀中頃~12世紀中頃 中央アジアを支配したトルコ系最初のイスラーム王朝。999年サーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンを征服して、そのイスラーム化を促進した。11世紀中頃パミール高原を境に東西に分裂し、のちセルジューク朝や西遼の支配下に入った。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史B用語集』山川出版社、2008年版、p.94

 

(新版)

 10世紀半ば~12世紀半ば頃 中央アジアではじめてのトルコ系のイスラーム王朝。10世紀末にサーマーン朝を滅ぼし、パミール高原の東西に領域を広げた。緩やかな部族連合体の政権であったため、11世紀には王族が各地で割拠し、12世紀にそれらはカラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史用語集』山川出版社、2018年版、p.76

 

10世紀半ば~12世紀半ば頃 中央アジアに成立した最初のトルコ系イスラーム王朝。建国後イスラーム教に改宗し、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼして、東西トルキスタンにまたがる領域を形成した。王朝は緩やかな部族連合体の政権であったため、11世紀には王族が各地で割拠した。それらは12世紀、カラキタイやホラズム=シャー朝に滅ぼされた。(全国歴史教育研究協議会編『改訂版世界史用語集』山川出版社、2018年版、p.113

 

もし上記が「信用ならないな」とお感じになるようでしたらWikipediaの紹介している引用の内容をご確認ください。多くの教科書や参考書で「カラハン朝=西遼が滅ぼした」となっているのは東カラハンと西カラハンの滅亡までにほとんど差がないこと、両王朝滅亡の大きな要因が西遼の進出によるものだったからでしょう。上記の新版『改訂版世界史用語集』(山川)の新しい記述は、そのあたりの事情を知らない受験生が混乱しないようにと配慮した記述になっているように思います。

 

・乾隆帝

:この用語は一瞬「!?」となる受験生もいたのではないかと思います。ただ、地力のある受験生であれば乾隆帝のジュンガル遠征と平定後の新疆の設置につなげて考えることは十分に可能かと思います。康煕帝による出兵以降、衰退していたジュンガル部は、18世紀半ばの乾隆帝の出兵によって平定され、彼らが住んでいた東トルキスタンの地域は「新疆」という藩部の一つとされ、理藩院の監督下に置かれることとなりました。注意しておきたいこととしては、ジュンガルはトルコ系部族ではなくオイラートの血をひくモンゴル系部族だということです。

 

・宋

:これも使いどころに一瞬迷うものかと思います。ただ、上述の通りカラハン朝の滅亡に西遼(カラキタイ)が深くかかわっていることを思い出せば、西遼建国のきっかけとなったのが宋(北宋)と金(女真族)の挟撃による遼の滅亡にあったことに思い至るのではないかと思います。遼の滅亡に際して、王族の一人であった耶律大石が西へと移動し、(東)カラハン朝を撃破して西遼を建国します。宋はこれにからめて使用すればOKでしょう。

 

・トルコ=イスラーム文化

:トルキスタンのトルコ化とイスラーム化にともなって、トルキスタンではトルコ=イスラーム文化という同地特有の文化が花開きます。トルコ=イスラーム文化とは何かというのは、受験生にはなかなか把握しづらい事柄かもしれませんが、本設問で使うのであれば、同文化が特に栄えたのがティムール朝の時期であったことと、具体例を一つか二つ示せれば十分でしょう。ちなみに、新版の『改訂版世界史用語集』(山川出版社)ではトルコ=イスラーム文化について「セルジューク朝やイル=ハン国の元で繁栄したイラン=イスラーム文化が、ティムール朝により中央アジアに伝わって形成された文化。トルコ語文学や写本絵画が発達した。」と紹介されており、それに続いて天文学の発展に貢献したティムール朝4代君主ウルグ=ベクや、細密画(ミニアチュール)などの項目が紹介されています。また、近年は教科書・参考書等でトルコ語文学(チャガタイ語文学)について言及されることも増えてきました。中でも、ムガル帝国の建国者バーブルが書いたとされる『バーブル=ナーマ』については今後出題頻度が増えてきそうな気がしています。ティムール朝期の文化については、2017年版『詳説世界史研究』の記述がかなりまとまっていますので引用します。

 

ティムール朝期の文化はおもにサマルカンドとヘラートで、君主や高官の保護のもとで発展した。2つの都市には、多数のモスク・マドラサ・ハーンカーフ(修道場)・庭園・聖者廟・公共浴場・隊商宿・病院・給養所が建てられたが、そのほとんどはワクフとよばれる寄進財で建設・運営された。ティムールの孫ウルグ=ベク(位144749)は、君主であると同時に天文学者でもあり、サマルカンドに天文台を建設したことで知られている。彼が作成した天文表のラテン語抄訳は1655年にイギリスで刊行された。歴代の君主は学芸の保護に努め、各地から学者や詩人を宮廷に招聘して優遇した。ヘラートで活動したナヴァーイーは、伝統的なペルシア語で詩作したのみならず、ペルシア語に倣ってアラビア語で表記されるトルコ語の文章語、すなわちチャガタイ語で多数の作品を著し、チャガタイ語の発展に大きく貢献した。この時代の著作は手書きで写されて流布したが、こうした写本にはしばしば美しく繊細な絵画(細密画)が挿入された。ヘラートやブハラ、タブリーズの工房は写本絵画の制作で知られていた。

 ティムール朝は、16世紀の初め北部の草原地帯から南下したトルコ系の遊牧ウズベクの攻撃を受けて滅亡した。このときティムール朝の王子バーブルはアフガニスタンをへてインドに進み、ムガル帝国を創始した。この意味でムガル帝国はティムール朝の継承国家ともいえる。バーブルの回想録『バーブル=ナーマ』は、チャガタイ文学の傑作として名高い。そして、ティムール朝にかわって西トルキスタンを制した遊牧ウズベクがしだいに定住することにより、この地域のトルコ化は最終段階を迎えることになる。(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、P.242

 

・バーブル

:バーブルを用いるコンテクストとしてはすでに上記のトルコ=イスラーム文化の方でご紹介しました。ティムールの血を引くバーブルは、パーニーパットの戦い(1526)でデリー=スルタン朝最後のロディー朝を破り、ムガル帝国を築きますので、こちらもトルコで勃興した勢力が周辺地域に影響を及ぼした例として示すのが良いかと思います。また、トルコ=イスラーム文化の一つとして示すことももちろんOKです。

 

・ブハラ・ヒヴァ両ハン国

:ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は19世紀後半にロシアが支配下におくウズベク人の国です。東大では以前ロシアのユーラシアにおける勢力拡大が出題されたこともありますので、東大受験生にとっては比較的なじみ深い用語ではないかと思います。ティムール朝の滅亡がウズベク人の進出によるものであることを考えれば、その流れにそって示してやるのが一番使い勝手が良いと思いますし、両国が事実上、ロシアの保護国となった[ブハラ=ハン国については1868年、ヒヴァ=ハン国については1873]ことも書くべきでしょう。

 また、ウズベク3ハン国と言えば、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国に加えてコーカンド=ハン国も当然問題となります。コーカンド=ハン国とブハラ・ヒヴァ両ハン国の違いをあえて示すとすれば、コーカンド=ハン国は完全にロシアの植民地として併合されることと、イリ事件の元をつくったヤクブ=ベクが元はコーカンド=ハン国がカシュガルで清に対して反乱を起こしたイスラーム勢力支援のために送った軍人であったことでしょうか。イリ地方は本来はモンゴル系の多い地域でトルキスタンとは歴史的に異なっていた地域ですが、清朝統治下においては新疆の一部としてタリム盆地のトルコ系イスラームと一体の関係で取り扱われておりましたので、本設問でトルキスタンの一部として取り扱っても差支えはないかと思います。近現代中央アジアにおけるムスリムの活動についてはつい最近上智のTEAP利用(2021年)の論述問題でかなり真正面から取り扱った設問が出題されるなど、出題頻度が増えてきている&設問自体もかなり突っ込んだものが多くなってきている印象を受けます。

 

・ホラズム朝

:ホラズム朝についてもすでに上記でいくらかご紹介しています。ホラズム地方(アラル海の南、アム川下流域)の統治を任されていたセルジューク朝の総督(マムルーク)が自立化したことで建国され、その後13世紀の初めまでにセルジューク朝や西遼、ゴール朝などを破ってイラン西部やアフガニスタンの一部を含む中央アジア一帯を支配する大勢力に成長しました。その後、チンギス=ハーンによって滅亡し、その旧領の多くはチャガタイ=ハン国の支配下に置かれることとなりました。(イランについてはイル=ハン国の支配下に入りました。)

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【3、指定語句をヒントに話の流れを整理】

:これまで、かなり細かく指定語句のチェックをしてきましたので、本設問を解くにあたって必要な情報のかなりの部分は確認できたかと思います。ですが、本番の試験会場ではここまで細かくチェックしている時間・余裕はないでしょうから、実際には手早く時代ごとに並べ替えて、内容的に途中の抜けがないかどうか、関連事項は何かなどを確認していくことになるかと思います。下の表は、上記2の指定語句チェックで述べた事項を簡単に時代や地域ごとに整理したものです。時代や地域が重なったりする部分もあるのでかなり大雑把なものですが、大きな流れを把握するにはこの程度で十分かと思います。赤字は、指定語句チェックをただ進めるだけでは出てきにくい事項です。特に、ウイグルの定住とトルコ化の進展、サーマーン朝の進出とイスラーム化の進展は前提となる部分ですので、これを見逃してしまうとかなり差がついてしまうかもしれません。メジャーな割に意外に気づきにくいのがセルジューク朝やモンゴルの支配でしょうか。「モンゴル支配をすっとばしていきなりティムール」みたいなことがないように注意したいですね。タラス河畔の戦いは出てくるかもしれませんが、唐による都護府の設置と西域支配は見逃しがちです。また、ガズナ朝・ゴール朝がトルコ系王朝であることも、指定語句を追いかけているだけでは見逃してしまうかもしれません。もっとも、いつも申し上げることですが必ずしも完璧な解答が書ける必要はない(書けるにこしたことはない)ので、仮に自分が見落とした箇所があるにしてもあまり気に病まず、自分ならどこまで書けるかを確認した上で精度を上げていくのが良いでしょう。

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それでは、これらを1の設問確認でチェックしたリード文の流れに沿って配置して、話の大きな流れを作ってみることにしましょう。

 

① オアシス都市がユーラシアの交易ネットワークの中心 / 文化が交錯する場

:トルキスタンでもともと活発に活動していたのはソグド人と呼ばれるイラン系民族で、オアシス都市を拠点に交易に従事していました。唐は、彼らが西域と呼んだ同地の経済的利益をおさえるため、クチャ(亀茲)に安西都護府を置き(658年)、さらに北庭都護府をおいて西域経営を強化しましたが(702年)、タラス河畔の戦い(751年)でアッバース朝に唐が敗れて以降は同地へのイスラーム勢力が進出を始めました。一方で、モンゴル高原を支配していたトルコ系ウイグル人の帝国が9世紀にキルギスによって滅亡すると、それまでの居住地を追われたウイグル人が中央アジアに定住し、これらとソグド人の混血が進む中で同地のトルコ化が進んでいきます。

 

② トルコ化が進む中で、トルキスタンと呼ばれるように

:トルコ化が進むトルキスタンでは、同時にイスラーム化も進展していきます。イラン系サーマーン朝の侵入によってトルキスタンのイスラーム化は加速し、その過程でイスラーム世界には同地のトルコ人を軍人奴隷として使役するマムルークを用いる習慣が導入されていきます。また、軍人として力をつけたマムルークの中には次第に自立化し、独自の勢力を築く者も出てきました。こうした中で、トルキスタンには同地初のトルコ系イスラーム王朝とされるカラハン朝や、後に西アジア方面へ進出してスルタンの称号を得るセルジューク朝、アフガニスタンに興りたびたびインドに侵入したガズナ朝やゴール朝、セルジューク朝から自立して中央アジア一帯に大勢力を築くホラズム朝などが成立していきます。

「アフガニスタンをトルキスタンに含めるのか」という問題については、現在のアフガニスタンの人口のほとんどが非トルコ系民族(イラン系が多い)ということで現在のトルキスタンの定義に照らすと微妙なところですが、アフガニスタン北部をトルキスタンに含めて考える場合もありますし、何よりガズナ朝・ゴール朝ともにトルコ系王朝ですから、本設問が設定している時期の両王朝を歴史的にトルキスタンに関係する事柄として示すことには問題がないのではないかと思います。

 

③ 同地の支配をめぐる周辺地域の勢力が進出

:トルキスタンではカラハン朝やホラズム朝が大きな勢力を築きますが、同地には宋と金によって祖国(遼)を滅ぼされた西遼や、チンギス=ハンによってモンゴルを追われたナイマン部のクチュルク、さらにユーラシア全土に支配を拡大するモンゴル手国のチンギス=ハーンなどの諸勢力が侵入して興亡を繰り広げます。こうした中でカラハン朝ならびにホラズム朝は滅亡し、しばらくの間は13世紀のモンゴルの平和(パクス=タタリカ)のもとでチャガタイ=ハン国などの支配が続きました。しかし、14世紀に入るとティムールが帝国を築き、トルコ=イスラーム文化が花開きます。それも16世紀には衰退し、トルキスタンはウズベク人の諸王朝によって支配されます。その後、トルキスタンは清の乾隆帝による新疆設置やロシアによるヒヴァ、ブハラ、コーカンドのウズベク3ハン国支配により、トルコ人以外の民族が支配する時代へと移り変わっていきます。

 

④ 一方で、トルキスタンで勃興した勢力が周辺地域に影響も

:これについては表の方にも示しましたが、以下の内容を適宜盛り込んでいけば良いかと思います。

 

A ガズナ朝、ゴール朝がインド侵入

B セルジューク朝の西アジア進出(バグダード入城とスルタンの称号)

C ティムールの進出とオスマン帝国のバルカン半島進出の停滞

D ウルグ=ベク天文表をはじめとするトルコ=イスラーム文化の伝播

E バーブルによるムガル帝国の建国(デリー=スルタン朝の滅亡)

F ヤクブ=ベクの反乱と露清両国の対立(イリ事件)

 

【解答例】

イラン系ソグド人がオアシス都市を拠点に交易した乾燥地帯は西域と呼ばれ、唐が都護府を置き支配したが、タラス河畔の戦い以降はイスラーム勢力が進出した。一方、キルギスに追われたトルコ系ウイグル人が同地に移住するとトルコ化も進んだ。サーマーン朝進出でトルコ人がマムルークとして受容されると勢力を拡大し、アフガニスタンに興ったガズナ朝やゴール朝、西アジアや小アジアへ進出したセルジューク朝、中央アジアのカラハン朝などのトルコ系王朝が出現した。カラハン朝はと金の挟撃で滅んだ遼の耶律大石が建てた西遼や、アム川下流域に興ったホラズム朝の圧迫で滅び、その後チンギス=ハーンの征服を経てチャガタイ=ハン国が出現した。チャガタイ=ハン国から自立したティムール朝は、アンカラの戦いでバヤジット1世を捕らえオスマン帝国の拡大を停滞させ、サマルカンドやヘラートではチャガタイ語文学や細密画などトルコ=イスラーム文化が花開いた。ティムール朝衰退後は、ティムールの血を引くバーブルがインドにムガル帝国を築いたが、トルキスタンはウズベク人が支配した。同地の西部に成立したブハラ・ヒヴァ両ハン国は南下政策を進める露の保護国とされ、コーカンド=ハン国は併合された。一方、モンゴル系ジュンガルが進出した東部は清の乾隆帝が平定し、新疆として理藩院の監督下に置かれたが、ヤクブ=ベクの反乱を機に発生したイリ事件が露清間の対立を引き起こした。(600字)