2000年の東大の問題はフランスの啓蒙思想家たちによる当時の中国への評価をベースに、彼らがそうした評価をなすに至った時代背景と、彼らの思想(啓蒙思想)の持つ歴史的意義を述べよ、という設問で、当時の東大の出題としてはやや異色の出題であったように思います。まず、東大が思想史を正面から扱うということが珍しいものでした。また、近年では2020年の問題などで見られましたが、史料の一部を示して、それをベースに論を展開させる型の出題は東大ではあまり見られません(こうした型の出題はむしろ一橋でよくみられるタイプの出題です)。そうした意味で、当時この問題に取り組んだ受験生にとっては、やや取り組みにくい設問であったかもしれません。
また、内容についてもなかなかに奥深く、受験生にとっては難しい内容が含まれていますので、高得点を取りに行くことを考えると難問だと思いますが、一方で設問の要求には受験生にとっては必須の基本知識を答えるべき部分も織り交ぜられていますので、いつも申し上げている通り「他の受験生より一歩抜けた解答を作る」ということを目標とした場合、そこまで無茶ぶりというわけでもないかなぁと思います。思想については多くの受験生は「何となく理解」していることが多いので、「啓蒙思想」というものをどこまで理解しているかが問われる本設問は「書けたつもりで書けていない」解答を多く生み出した問題だったのではないかと思います。
【1、設問確認】
・これらの知識人(18世紀フランスの知識人=啓蒙思想家)が、このような議論をするに至った18世紀の時代背景について述べよ。
・とりわけフランスと中国の状況に触れよ。
・彼ら(啓蒙思想家)の思想の持つ歴史的意義について述べよ。
・15行(450字)以内。
・指定語句(下線を付せ)
イエズス会 / 科挙
/ 啓蒙 / 絶対王政 / ナント王令廃止
/ フランス革命 / 身分制度 / 文字の獄
:本設問では「このような議論」をするに至った時代背景について述べよ、となっていますので「このような議論」とは何かをしっかり確認する必要があります(この中身を確認せずに単に「啓蒙思想は」とひとくくりにしてしまうと、きめ細かさのない粗い解答になってしまいます)。また、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューが「18世紀フランスの知識人」であったことから、時代的・地域的には「18世紀フランスの状況」を述べることが求められています。これは、18世紀フランスに生きた彼らの思想の背景には拭い難く「18世紀フランス」の影響がみられるからにほかなりません。たしかに、啓蒙思想自体は全ヨーロッパ的な、コスモポリタン的な性格を持ったもので、当時の啓蒙思想家たちは他国の知識人とも活発に意見交換をしていましたが、だからと言って当時彼らが置かれていた社会における諸条件から完全に解放されていたわけではありません。設問がそうした視点をもって「18世紀フランス」に限定したのかどうかは分かりませんが、設問の指示に従うのであれば、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューたちの述べている意見を確認した上で、なぜそのような意見・視点・思想を持つに至ったのかを「18世紀フランス」の時代背景・状況から説明することになります。また、中国に対する評価を行っているわけですから、当然同時代の中国の時代背景も考慮に入れることになります。(もっとも、後述するように「彼らの思想の影響」について述べる際には必ずしもフランスという枠にとらわれる必要はないように思います。)
:本設問では啓蒙思想の持つ歴史的意義についても述べよ、となっています。問題になるのは、これを18世紀フランスに限定すべきかどうかということですが、少なくとも設問は直接的にそのような指示はしていません。また、上記の通り、彼らの思想は18世紀ヨーロッパが「啓蒙の世紀」と称されるほどに全ヨーロッパ的な影響を与えていたことからも影響は何もフランスに限定されるものではないかと思います。昔の教え方ですと「啓蒙思想→フランス革命」に一直線なムードがありましたが、そもそもフランス革命自体が思想的にも政治的にも物質的にもアメリカ独立革命の影響を受けたものでしたし、18世紀東欧の近代化は啓蒙専制君主の存在なしには語れません。字数的に450字なので、結果として時代的には18世紀に限定されるとしても、歴史的意義について述べるにあたって地域的にフランスに限る理由はあまり見いだせない気がしますので、解答例もそのつもりで作成してみたいと思います。
【2、「このような議論」の中身はどのようなものか】
:設問中に示されている3人の啓蒙思想家ですが、ヴォルテールは啓蒙思想家の代表格です。イギリスに渡り、名誉革命後の(フランスのアンシャン=レジーム下の社会と比べると)自由な社会に触れたことが刺激となって書かれた『哲学書簡(イギリス便り)』などは私大でも頻出ですし、『寛容論』などで宗教的寛容を説いたことでも知られています。また、フリードリヒ2世、エカチェリーナ2世などの啓蒙専制君主と交流があったことでも知られる人物です。二人目のレーナルは高校世界史ではまず名前があがることはありません。革命前のフランス社会において教会や王政を批判した著述家です。三人目のモンテスキューは『法の精神』の中で三権分立を説いたことで知られる人物ですね。彼ら3人の対中国評価が設問中では示されていますので、そのポイントだけ示しますと以下のようになります。
ヴォルテールは中国の儒教について、迷信や伝説がなく、道理や自然を侮辱するような教理がないと称賛しています。これは、逆に言えば当時のフランスの社会には迷信・伝説があり、道理や自然を侮辱するような教理がまかり通っていることを暗に批判しているといえないこともありません。当時のフランスはアンシャン=レジームの下でブルボン家による絶対王政が展開されているわけですが、ここで力を持っていたのは第一身分である聖職者と第二身分である貴族です。18世紀フランスは、教会と貴族がその教理や家柄といった権威を振りかざして第三身分の平民を支配する権威主義的な社会でした。こうした中でヴォルテールが中国の儒教を上記のような形で称賛しているのは、合理的な考え方を尊重し、それを通して伝統・権威・キリスト教の教理などが持つ不合理を批判するという意味を持っていました。(啓蒙思想のこうした考え方については、2021年一橋の大問Ⅱ解説の方でも少し述べました。)
これと類似の考え方はレーナルの主張にも見られます。レーナルはヨーロッパの特権階級は「自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位」を持ち、そのため「ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在している」と当時の身分制度を批判しています。一方で、中国については「このような制度」はなく、「世襲的貴族身分が全く存在しない」ことを紹介して称賛しています。指定語句に「科挙」があることからレーナルが称賛しているのが科挙などの人材登用システムにあることは明らかです。もっとも、当時の中国(清)では確かに科挙をはじめ満漢併用制など満州人と漢人を区別しない登用システムなどが存在していましたが、それでも貴族身分や世襲身分が存在しなかったわけではありません。ですが、レーナルの議論については当時のフランスに暮らす啓蒙思想家レーナルが「どのように中国をとらえたか」を把握することが大切です。
ヴォルテールやレーナルが中国社会を称賛しているのに対して、モンテスキューの方はややシビアです。彼は「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては『恐怖』が必要である。」と述べた上で、中国を「専制国家であり、恐怖で統治する」国家であると批判しています。設問のリード文でも「中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。」とあるように、啓蒙思想家の中国観が全て肯定的意見だったわけではないという点には注意が必要でしょう。
【3、啓蒙思想家はなぜ、「このような議論」を進めたか】
:では、「このような議論」の中身を確認したところで、本設問の要求である、ヴォルテール、レーナル、モンテスキューという三人の啓蒙思想家たちはなぜ「このような議論」に至ったのかという背景を、フランスの時代背景、中国の時代背景を手掛かりにまとめていきましょう。まず、18世紀フランスの時代背景で、高校世界史に登場してくる知識としては以下のような事柄があるかと思います。
(18世紀フランスの状況)
・貴族たちによる権威主義的な統治と身分制 / 社会の様々な束縛(アンシャン=レジーム)
:当時のフランスには、聖職者・貴族などの特権身分に対する免税特権をはじめ、様々な特権が存在していました。ところが、市民層の成長(ブルジョワの台頭)とともに彼らの持つ特権や権威に対する批判が高まっていきます。たとえば、ギルドなどが廃止されたイギリスの自由な商業活動を見たヴォルテールの『哲学書簡』などによってフランス社会の後進性が示されます。こうして、「アンシャン=レジームにおける諸特権が自由な経済活動を阻害している」ということが明らかになってくると、新しい経済理論が登場します。これがケネーの重農主義や自由放任という主張、『経済表』による経済分析へとつながっていきます。また、こうした批判がアンシャン=レジームにおける身分制自体の非合理性批判へとつながっていくとルソーの『人間不平等起源論』であるとか、シェイエスの『第三身分とは何か』などに見られる身分制批判が生まれてきます。
・キリスト教的価値観の支配する世界と啓蒙思想の対立
:フランスでは、17世紀後半から18世紀初めにかけてルイ14世の下で絶対王政が最盛期をむかえます。国王を頂点とする集権化が進み、国内の安定が達成されると、かつてのユグノー戦争時のような国内混乱は生じないわけで、少数派(ユグノー)に対する配慮も不要になりました。そこで1685年、ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令を発していわゆるナントの王令を廃止するわけですが、このことによって18世紀フランスは宗教的には不寛容な社会に逆戻りをしていきます。また、フランスにおけるガリカニスムは教会と王権に同じ方向性を持たせ、教会に逆らうことはキリスト教の教理のみならず王室の権威に逆らうことともとらえられるようになりました。
こうした中で、啓蒙思想は「合理的な」考え方を尊重し、理屈に合わない、観察や実験を経ない「迷信」や「伝説」を批判していきます。そうしたものの中で良く知られているのはディドロやダランベールが中心となって編纂された『百科全書』でしょう。『百科全書』は王党派や教会からたびたびその内容を批判されて発禁処分を受けます。本設問のヴォルテールによる中国儒教の称賛はこのような文脈のもとで読み取る必要があります。また、ヴォルテール自身も「カラス事件」(1761年にトゥールーズで発生した、少数派のプロテスタントに対するカトリック側の偏見がもとで生じた冤罪事件)をきっかけとして、宗教的寛容を説く『寛容論』を著しています。当時のフランスが、教会の権威と、教会の非合理性を批判する啓蒙思想家たちが対立する社会であったことをおさえておく必要があります。
(参考)17世紀の「科学の時代」が準備した18世紀「啓蒙の時代」
:本設問の対象は「18世紀フランス」なので、厳密には17世紀の話は不要です。ただ、18世紀が「啓蒙の時代」となる前に、17世紀の「科学の時代」がその思想的土台を用意していたことには注意しておく必要があると思います。いわゆる「科学革命」では望遠鏡、顕微鏡など用具面での開発と、観察・実験などの方法論の確立の確立が進んでいきます。簡単に言ってしまうと、観察や実験の精度が上がっていくわけですね。正確に物事を測る器具や方法がないと、「何となくこのくらいずつ混ぜると…爆発したw」みたいなことになってしまいますし、同じ現象を再現することも難しくなります。17世紀になると、正確にものを測ったり見ることができる器具がそろい、そのための方法が確立して、実験・観察における現象の再現性が飛躍的に向上することになります。すると、実験結果・観察結果を数値化することも容易となり、理論に数学的裏付けがなされていくことになります。17世紀はイギリスでニュートンが会長も務めた王立協会が、フランスでも王立科学アカデミーが設立された時代です。「17世紀=科学の時代」の理性に基づく様々な考え方の発達は、合理性を重んじる18世紀の啓蒙の時代へとつながっていきます。この二つの時代は早慶などの私大でも頻出の箇所なので、代表的な人物や著作・成果はおさえておいた方が良いかと思います。
(18世紀の中国[清]の状況)
:18世紀(1701~1800年)の中国、つまり清についてということですと、おおむね康煕帝・雍正帝・乾隆帝の統治期間ということになります。清では明代と同じくイエズス会宣教師が重用されておりましたので、彼らのもたらす情報がヨーロッパへと伝わっていきます。もっとも、情報の伝播の仕方には多少のタイムラグがあるかと思いますし、康煕帝の統治期間が17世紀から18世紀にまたがっておりますので、こちらの方はそこまで厳密に18世紀にこだわらずとも、世界史で清朝について勉強する内容として知られた話をまとめるだけで良いかもしれません。ただし、さすがに明代の話などを入れると時代的に無理がありますので、それは避けた方が良いでしょう。
・宗教的寛容(儒学の他、仏教、道教、一時的にはキリスト教)
:これは、ヴォルテールが儒教の称賛とフランスの教会の非合理性批判を行っていることと合わせて示すと良いでしょう。中国でも時おり国教的なものが定められることはありますが、基本的には複数の宗教が併存している社会です。
・科挙や満漢併用制などの登用システム
:こちらは、レーナルの世襲貴族批判とのからみで示せればよいかと思います。科挙などの登用システムに影響を受けて、ヨーロッパでも官僚登用のための高等文官試験などが整備されていきます。ただし、当時の中国において支配階層が形成されていなかったのかというと、そういうわけではないのであって、郷紳など実質的には支配階層と言える層は存在していました。
・皇帝専制支配(清) / 文字の獄 / 典礼問題
:宗教的寛容や筆記試験に基づく試験など、アンシャンレジームと比較したときに自由で平等に見える一方で、清でも強権的な支配や言論・思想統制は存在しました。モンテスキューが指摘する通り、当時の清は皇帝による専制支配のもとにおかれていましたし、また体制にとって危険とみなされた思想や宗教は弾圧の対象となることがありました。たとえば、文字の獄などはその良い例ですし、一時は布教に寛容だったキリスト教・イエズス会などに対して禁令を発することになる典礼問題もそのひとつと考えることができます。
(中国・フランス双方に関係のあるものとして)
・イエズス会士の活動と中国文化のヨーロッパへの伝播
:イエズス会士たちは明代の頃から中国で活躍しており、ヨーロッパの文物を伝えると同時に中国の文化をヨーロッパへと伝えていました。本設問では18世紀の状況ですので、基本的には清で活躍した人物を書く必要があります。多分、本設問で一番使い勝手が良いのはブーヴェ(白進)ではないでしょうか。ブーヴェはその著作に『康煕帝伝』があることから康熙帝の頃の人物であることはあたりがつきますし、フランスのルイ14世が送った宣教師ですから、時期的に大外れということはなさそうです。実際、ブーヴェはライプニッツに儒教経典の一部を紹介などもしています。確実に18世紀となると乾隆帝の肖像画を描いたことでも知られるカスティリオーネ(郎世寧)がおりますが、西洋画や円明園の話だと本設問の内容につなぎにくい気がします。
・朱子学がヨーロッパに与えた影響
:中国から伝えられた文化のうち、朱子学は特に18世紀のヨーロッパの知識人に大きな影響を与えたことで知られています。唐代までの儒学が主に儒学経典の注釈・解釈を中心とする訓詁学にとどまっていたのに対し、宋代に入ると儒学はより大きな世界観をもった哲学体系へと発展していきます。北宋の周敦頤に始まるとされる宋学は南宋の朱熹によって大成され、全宇宙の運行と総ての生命を支える根本原則たる「理」と、物質を構成する根本たる「気」の二つによって宇宙の万物が形成されるとする「理気二元論」が確立されました。単なる字句の解釈にとどまらない壮大な宇宙観と、これを基にした中国に古来から存在する経書の膨大な知識体系は、ルネサンスに続き17世紀の科学の時代を経験し、人間の理性とは何かに注目し始めたヨーロッパの知識人たちの注目する所となりました。
有名なところでは、ドイツの数学者・哲学者であるライプニッツが中国の易経に関心を寄せていたことが知られています。太極から陰と陽が派生し、八卦にいたる宇宙生成論を示した先天図は朱子学においても重視されましたが、これを宣教師ブーヴェから伝えられたライプニッツは自身の2進法との類似に強くひき付けられることになります。
(Wikipedia「ライプニッツ」より)
(Wikipedia「先天図」より
[CC 4.0, Author:Gmk35298])
また、カントやヴォルテールといった18世紀の思想家たちにも中国の思想は大きく影響を与えたことが知られています。フランスのケネーの重農主義にも『太極図説』の影響が見て取れるとの指摘もあります。中国文化の啓蒙思想家への影響については、2017年に改訂された『詳説世界史研究』では記述量がだいぶ減ってしまい、具体的な人名や事例などは省かれてしまいましたが、旧版(2008年版)の『詳説世界史研究』ではかなりの字数を割いて説明されておりました。こちらの説明がコンパクトにまとめられて分かりやすいかと思いますので、以下引用します。
イエズス会宣教師をつうじて紹介された西洋学術は、中国文化に大きな影響をおよぼした。しかし彼ら宣教師も中国の制度・文化を積極的にヨーロッパに紹介し、各方面に大きな影響を与えた。たとえば、科挙制度は高度な官吏登用方法と考えられ、その影響でイギリスやフランスでは高等文官試験制度が始められた。また朱子学はヨーロッパの学者に歓迎され、ドイツの哲学者ライプニッツに影響を与え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールに高く評価された。とくにヴォルテールは、孔子を崇拝していたという。フランスのケネーの重農主義にも中国の道家思想や農本主義が大きく影響している。陶磁器をはじめとする工芸品は、ロココ式芸術にとりいれられ、またフランスのルイ14世は中国風のトリアノン宮殿をたて、マリ=アントワネットは宮殿に中国家具がおかれた部屋をもっていた。さらに中国の造園術は、フランスのヴェルサイユ宮殿にも影響を与えた。
イエズス会宣教師たちによって紹介された中国文化は、17~18世紀のヨーロッパに大きな影響をおよぼしたが、これをうけておもにフランスを中心に、中国の歴史や文化を研究対象とするシナ学(シノロジー、Sinology)が発達し、また17世紀後半から19世紀初頭にかけての美術にも影響を与え、シノワズリ(中国趣味)として流行した。[木下康彦ほか編、『改訂版:詳説世界史研究』山川出版社、2008年版p.263]
・科挙とイギリスやフランスの高等文官試験
:上述の引用にありますように、科挙は非常に優れた官吏任用試験と受け止められ、英仏の高等文官試験導入に影響を与えたとされています。また、筆記試験によって官僚への採用が決まる科挙のシステムは、身分制や世襲にとらわれないシステムとして、上述したレーナルのように当時のヨーロッパの啓蒙思想家に高く評価されました。
【4、啓蒙思想の歴史的意義とは何か】
:それでは、最後に設問のもう一つの要求である彼ら(啓蒙思想家)の思想、つまり啓蒙思想の持つ歴史的意義について考えてみたいと思います。ここで注意すべきこととしては、設問の要求しているのはあくまでも「啓蒙思想」の持つ歴史的意義なのであって、必ずしもフランスに限定する必要はないということです。設問はたしかに「とりわけフランスと中国の状況に触れよ」と要求していますが、それは18世紀の時代背景についてこれを要求しているのであって、歴史的意義についてまでこれを要求しているのではありません。問題概要のみですとこのあたりのことが読み取りにくいと思いますので、以下に設問の要求部分だけ引用します。
これらの知識人がこのような議論をするに至った18世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況にふれながら、彼らの思想の持つ歴史的意義について、15行(450字)以内で述べよ。
まぁ、フランスを中心に書いても問題はないのかもしれませんが、上述したように18世紀の啓蒙思想家の活動は国という枠にとらわれないコスモポリタンなものでしたし、18世紀フランスの啓蒙思想がフランスに限らずヨーロッパ全体に大きな影響を与えていたことを考えると、その歴史的意義をフランスに限定する意味はないように思います。出題者の当初の意図と合致していたかまでは分かりませんが、採点の際にはフランスに限らない広い視点での歴史的影響を書いたとしても、加点要素として考慮してもらえたのではないかと思います。フランスに限定してしまうと「啓蒙思想はフランス革命を準備した。」というお定まりの定型文で終わってしまいますし、仮にルソーだのなんだのと色々肉付けをしたとしても何だかつまらないですよね…。何より、東大らしくありませんw やはり、あっちにもこっちにも影響して、脱国境!交流!複雑!でもつながってる!すごいでしょ!の方が東大っぽくていい気がします。さて、以上を踏まえて「啓蒙思想の歴史的意義」ということでまとめるのであれば、ポイントとして示すべきなのは以下のようなものではないでしょうか。こちらは、教科書レベルでも十分に対応できる内容かと思います。また、あわせて啓蒙思想の持つ性格についても示しておきたいと思います。
[啓蒙思想の歴史的意義]
・フランスにおいてはフランス革命を準備したこと
(また、それ以前にはアメリカ独立革命に影響を与えたこと)
・東ヨーロッパでは啓蒙専制君主の出現と近代化を促したこと
・封建社会、貴族社会にかわる近代市民世界において理論的正当性を与えたこと
(台頭するブルジョワの拠る理論)
・啓蒙思想を通じたコスモポリタン的、身分横断的な広がり
‐知識人のネットワーク
(アダム=スミス、ルソー、ケネーなどの文通、ヴォルテールの活動)
‐サロン
・博物学の発展
(各地の探検やビュフォン『博物学』、イギリスの『ブリタニカ百科事典』など)
・宗教的寛容が進んだこと
‐イギリスにおける国教会と非国教徒系プロテスタントの連携
‐プロイセンにおける宗教的寛容
[啓蒙思想の性格]
・理性に照らして非合理なものを排除する実学
・歴史や伝統、信仰を相対化する普遍主義
・未来を楽観する進歩思想
【解答例】
フランスでは身分制度に基づくアンシャン=レジームの下、免税特権を持つ特権身分による権威主義的統治が展開され、ガリカニスムの下で国家と教会の価値観が強要され、自由な経済活動や科学的思考は阻害された。ルイ14世のナント王令廃止以降はユグノーが弾圧され、商工業が停滞した。中国では科挙や満漢併用制の実施、イエズス会士の重用など、身分や人種を越えた人材登用がされ、儒仏道の三教を基本としつつ宗教的には寛容で、マテオ=リッチの数学・暦法などの新知識も取り入れた。『哲学書簡』で啓蒙思想を広めたヴォルテールは儒教の合理性を称賛する一方で伝統・権威・キリスト教などの非合理性を指摘し、レーナルは階級にこだわらない官吏任用制度を評価したが、モンテスキューは反体制的思想を文字の獄で弾圧する中国をフランスと同じ専制国家であると批判した。このように、啓蒙思想家は絶対王政を批判し、合理的・普遍的・進歩的思想をヨーロッパに広めて、アメリカ独立革命やフランス革命の思想的土台を作り、東欧では啓蒙専制君主の出現と近代化を促した。(450字)