2023年の早稲田大学法学部の大論述は、南アフリカのアパルトヘイトをテーマとした設問でした。早稲田の法学部では時々ある国のタテの流れと特定のテーマを意識した設問が出されています。(2014年中国の外交関係の展開、2016年の19世紀ドイツ史、2020年のメキシコ近現代史など。) 南アフリカというのは300字近い論述問題では比較的珍しいものですが、それほど入り組んだ難しい内容ではありません。ごく常識的なラインをきちんとおさえてあれば一定レベルの得点は得られる設問だと思います。

ただ、当日の受験生の中には、意外にこの「ごく常識的なラインをおさえる」ということが難しかった人も多かったのではないかと推測します。あまりにも普通の内容過ぎて、逆に書ける内容がないということがあり得たのではないかと。色々と関係が入り組んでいたり、情報量にあふれたテーマであれば、情報の取捨選択が重要で、「書く内容がない」ということはあまりないのですが、アパルトヘイトということになると、「あー、南アフリカね。うんうん。アパルトヘイトね。人種隔離ね。うんうん。…あと何書けばいいんだ(汗)?」となってしまった受験生が意外にいたんじゃないかなぁという気がします。重箱の隅をつついたような知識を用意する必要はないのですが、その分自分が持っている知識を丁寧に整理していく必要のあった問題という気がします。

 

【1、設問確認】

・時期:17世紀半ば~1990年代初頭

1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革について説明せよ。

・その際、17世紀半ば以降の歴史的経緯をともに説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

ケープ植民地 / 南アフリカ戦争 / 白人少数者 / アフリカ民族会議

 

:本設問では、何と言っても「1990年代初頭に南アフリカで行われた大きな社会変革」というのがアパルトヘイトの撤廃であるということをしっかりつかむことが大切です。その上で、17世紀半ば以降の南アフリカの歴史的経緯を示す必要があるのですが、出発点が17世紀半ばに設定されているところから、「オランダによるケープ植民地建設(1652)」が意識されていることに気づく必要があります。この2つを思いつけば、基本的には「ケープ植民地(南アフリカ)の支配の変遷→南ア戦争と南アフリカ連邦の形成→アパルトヘイトとアフリカ民族会議(ANC)の抵抗→アパルトヘイトの撤廃」という流れは想像がつくので、あとは肉付けをしていくだけです。

 

【2、南アフリカ連邦形成までの歴史的経緯を概観する】

:最初に、オランダによるケープ植民地建設から、イギリスの自治領である南アフリカ連邦形成までの流れを確認する必要があります。意外にウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領になっていることを把握していなかったりすることがあるので注意が必要です。基本的な流れは以下の通りとなります。

 

1652 オランダによるケープ植民地建設

1815 ウィーン議定書でケープ植民地がイギリス領に

(ナポレオン戦争中に英が占領していたため、実質的には1806年から領有)

19世紀半ば トランスヴァール共和国、オレンジ自由国建国

      (圧迫されたオランダ系白人[ブール人]が北上したことによる)

19世紀後半 トランスヴァール共和国やオレンジ自由国で金・ダイヤモンドが発見される

       →ケープ植民地首相セシル=ローズの北上策(ローデシアの建設)

18991902  南アフリカ戦争

       →英植民地相ジョゼフ=チェンバレンの主導によるブール人国家の制圧

1910 南アフリカ連邦の形成(イギリスの自治領)

 

ただし、本設問においてはあくまで設問の中心はアパルトヘイトをめぐる動きです。ですから、こうしたケープ植民地(または南アフリカ連邦)をめぐる領有権の変遷については最小限にとどめ、これらの地域にオランダ系白人(ブール人/またはアフリカーナー)とイギリス系白人が住むようになったという事実を、本設問の指定語句にもある「白人少数者」である彼らが多数派の黒人を支配するにあたって人種隔離政策をとったことにつなげるように意識することが大切です。


南アフリカ連邦_名称つき

 

【3、アパルトヘイトとアフリカ民族会議】

:アパルトヘイトについて、受験生は「南アフリカで展開された人種隔離政策」ということまでは把握していると思いますが、意外にそのディテールまでは把握していなかったりします。アパルトヘイトが本格的に国の体制として整備されるのは第二次世界大戦後ですが、南アフリカ連邦が成立する頃からすでに実態としては白人の優越と黒人の隔離政策は始まっていました。人口比で言えば1割強ほどであったイギリス系・オランダ系の白人たちが支配階層となり、それ以外の有色人種(大半は黒人、一部インドなどのイギリス植民地からの移住者あり)を差別する形は、南アフリカ社会の様々な面で、長い時間をかけて作られていくことになります。

 

(アパルトヘイト)

:アパルトヘイトの具体的な差別・隔離の態様としては、

 

・黒人に対する経済的搾取(低賃金労働など)

・選挙権の制限、剥奪

・居住地の制限や隔離

・人種差別的な教育

・白人と非白人の性交渉・婚姻の禁止

 

などが挙げられます。

 また、黒人の居住区は次第に大規模に部族ごとに制限され、黒人居住区と白人居住区が分離されていきます。最終的には、黒人は部族ごとにホームランドと呼ばれる非常に狭い自治区に押し込められることになります。

 

(アフリカ民族会議[ANC]などによる抵抗運動)

:南アフリカの黒人たちは、こうした自治領政府の人種隔離政策に早くから反対し、1912年には南アフリカ先住民会議を組織し、その後これが1923年にアフリカ民族会議(ANCAfrican National Congress)に改称されました。当初は、インドのガンディーによる非暴力・不服従運動の影響を受けた非暴力主義的運動を展開しますが、第二次世界大戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化が進むと性格を変えはじめ、ネルソン=マンデラなど若手の指導者を中心に1960年代ごろには武力闘争へと方針を転換していきます。これがきっかけでマンデラは逮捕され、その後30年近くにわたって獄中にとらわれました。

 もっとも、本設問ではこうした細かい内容は不要で、ANCがアパルトヘイトに対する抵抗運動を行ったことと、その指導者にマンデラがいたことが示されていれば十分だと思います。

 

(アパルトヘイトへの国際的な非難と撤廃まで)

① 国際的な批判と南アフリカ共和国の成立

:戦後にアパルトヘイトの本格的な制度化に乗り出した南アフリカ連邦に対し、国際社会は批判の目を向けていきます。特に、イギリス連邦はこれを強く非難したため、南アフリカ連邦は共和政に移行して南アフリカ共和国となり、1961年にイギリス連邦を離脱します。

 

② ソウェト蜂起(1976

:南アフリカでは1960年代から黒人の学生運動を中心とした権利要求運動が高まっていましたが、こうした南アフリカ政府がアフリカーンス語(オランダ系白人などの言語)を学校教育に導入することを決定すると、これに反発した黒人学生の抵抗運動とこれを弾圧する警察隊の間で衝突が生じ、暴動が拡大しました。この結果、多くの人々が死傷したため、南アフリカに対する国際社会の目は一層厳しいものになり、たびたび経済制裁などが課せられました。

 

③ 冷戦の終結とアパルトヘイト諸法の撤廃

:アパルトヘイト撤廃に大きな力となったのは、冷戦の終結でした。実は、南アフリカは様々な希少金属が産出される国なのですが、こうした希少金属の中にはソ連などの共産圏でしかまとまった量が産出されないものもあり、冷戦が展開されている中で南アフリカを完全に排除することは西側諸国にとって望ましいことではありませんでした。しかし、1980年代の後半に入り、冷戦終結への道筋がはっきりしてくると、国際社会の南アフリカに対する風当たりや経済制裁はさらに厳しいものとなりました。

 こうした中で、1989年に大統領となったデクラーク(白人)は従来の方針を転換し、アパルトヘイトの撤廃に向けて動き始めます。1990年には長らく獄中にいたマンデラを釈放し、さらに翌1991年にはアパルトヘイト関連諸法が廃止されてアパルトヘイトは法的に撤廃されました。その後、1994年には選挙権を取り戻した黒人たちなどの全人種参加による選挙が実施されて、マンデラが大統領となりました。このあたりの事情を知っていると映画『インビクタス』はより面白く見ることができます。

 

 さて、アパルトヘイトの撤廃までの流れは上記①~③までなのですが、当然これらを全て本設問に盛り込む必要はありません。もし書くとすれば、「南アフリカ共和国のイギリス連邦からの離脱」、「冷戦終結への動きとアパルトヘイトに対する国際批判の高まり」、「デクラークによるアパルトヘイト関連諸法の撤廃」あたりを考えると良いでしょう。本設問は「1990年代初頭の…大きな社会変革」とありますので、このアパルトヘイトの撤廃までで十分で、マンデラの大統領就任は基本的には不要だと思います。(書いても多分大きな差支えはない気がしますが。)

 

【補足:教科書・用語集などのアパルトヘイト関連記述】

:アパルトヘイトがらみの話というのは、世界史探究に限らず歴史総合などでも出て来ますし、中学高校生活をしていれば何らかの社会科科目で目にすることもあると思いますし、ちょっと問題意識を持っている人であれば、映画やら書籍やらマンガやらで関連するものを目にしたことのある方もいらっしゃるかと思いますので、別に厳密に教科書に従う必要もないとは思うのですが、一応教科書にはどの程度の記載があるのか確認してみたいと思います。

 

 また、第2次世界大戦後に南アフリカは、多数派である黒人を隔離するアパルトヘイト政策をとり、アフリカ民族会議(ANC)の抵抗や国際連合の経済制裁を受けてきたが、1980年代末に白人のデクラーク政権が政策の見直しを始めた。91年に差別法を全廃し、94年には平等な選挙権を認めた結果、アフリカ民族会議が過半数を制して、その指導者であるマンデラが大統領に当選した。

(『詳説世界史探究』、山川出版社、2023年、p.347

 

他にもp.3303行ほど記述がありますが、南アフリカでアパルトヘイトやってた程度の記述しかありません。用語集はもう少し記述がありましたが、用語などの情報量という面では大差ありません。

 

【解答例】

17世紀半ばに成立したオランダのケープ植民地がウィーン議定書で英領になると、オランダ系白人のブール人は北部にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。金やダイヤモンドの発見に伴い、イギリスはジョゼフ=チェンバレンが主導する南アフリカ戦争で両国を併合して自治領南アフリカ連邦を形成した。ブール人を含む白人少数者は黒人差別を強化し、第二次世界大戦後にアパルトヘイトとして本格化される人種隔離政策を進めた。これに批判的な英連邦を離脱して南アフリカ共和国を建国し、マンデラ率いるアフリカ民族会議を弾圧したが、冷戦が終結に向かう中で国際的批判が厳しくなると、デクラークはアパルトヘイト関連諸法を廃止した。(300字)