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【概観】

 今回は、2021年の東京外国語大学の問題解説を進めたいと思います。大問1は、冷戦体制下における核兵器開発をめぐる史料3つ(ニュージーランド、ソ連、アメリカ合衆国)を参考に関連する問題を解くというものでした。小問数は6でしたが、答えるべき箇所は7なので5点×735点で例年と変わりません。また、論述問題が1で、25点というのも変更はありません。文字数は500字以内で、2019年以降の形式を踏襲しています。

 設問の内容についてですが、小問についてはごく基本的な内容です。ある程度世界史をしっかり勉強している受験生であれば十分全問正解できる内容かと思いますので、この35点はしっかりとキープしておきたいところです。論述問題についても内容としては基本的な内容ではあるのですが、特に現役の受験生は現代史、中でも核や環境についての設問は後回しになりがちな分野でもあります。こうした中で、核をめぐる国際関係とがっぷり四つで向き合わねばならない本設問には抵抗感を持つ受験生も少なくなかったのではないでしょうか。また、人によっては核関連の知識が年代別に整理されていないこともあるかもしれませんので、時期が「1960年代半ばまで」と区切られていることも、障害の一つとなったかもしれません。ただ、核関連の知識を完全に放棄してしまったなどがなければ、丁寧に自分の知っている知識を整理していけば、多少の誤りや勘違いがあったとしても得点が入らないということはなかったのではないかと思います。また、東京外国語大学では、2018年の災害史に関する設問中で核を扱った設問が出ていますから、過去問に触れたことのある受験生にとっては全くノータッチで出てくる知識でもなかったと思います。そういう意味でもこの論述問題はごく標準的な設問であったように思います。

 大問2は、歴史学の分野ではよく知られた「長い19世紀」論についての文章を読んで、設問に答えるというものです。小問数は6なので5点×6=30点、これに40字の論述(10点)が加わって計40点。2019年以降のスタイルと同じです。「長い19世紀」論は『創られた伝統』で知られるホブズボームというイギリスの歴史学者が提唱した考え方で、1801年から1900年までという機械的に区切られた19世紀ではその時代の特徴や連続性を十分に説明することができないという考え方から、時代区分についてもそれぞれの実態に即した区分を考えるべきであり、このような考え方に沿えばフランス革命から第一次世界大戦の開始までは一定の連続性と特徴を持った「長い19世紀」ととらえることができるという考え方です。私が大学院生だった頃に専門としていた分野は17世紀末から18世紀のイギリスでしたが、ここでは「長い18世紀」(たとえば、17世紀末の名誉革命の頃から、19世紀に向けての展開までの流れ[ナポレオン支配の終わりとウィーン体制の成立頃まで]を一連の時代ととらえる)という見方がかなり意識されていたように思います。よく、地理的な概念についても「一国史」という機械的に限定された空間で歴史をとらえるのではなく、より広域で、「国家」という概念にとらわれない世界で考えなくてはならない(たとえば、「地中海世界」のような)という話が出てきますが、「長い〇〇世紀」、「短い〇〇世紀」論というのは、その時代区分バージョンだと考えることができます。
 もっとも、本設問においてこの「長い〇〇世紀」論についての知識は不要で、基本的には紹介されているユルゲン=オースタハメルの文章を読めば時代区分を機械的にではなく、その内容に応じて行うべきであるという議論は理解できるはずですし、その見方自体が設問を解く上で必要になるのも設問740字論述のみとなりますので、全体に大きな影響を与えるものではありません。(読み物としては面白いですが。) 大問1、2ともに標準的な問題で、東京外語の問題としてはむしろ、比較的平易な設問と言えるのではないでしょうか。

 

【小問概要と解説】

(大問1-1)

概要:日本の漁船が被爆した水爆実験をアメリカが行った環礁はどこか。

解答:ビキニ環礁

 

:設問では色々とぼかした形で聞いてきていますが、日本の漁船が核実験で被爆したと言えば第五福竜丸事件(1954)のことだということはピンときます。この原因となったアメリカ合衆国の水爆実験(キャッスル作戦のブラボー実験)がビキニ環礁で行われたというのは基本知識です。

 

(大問1-2)

概要:文章の空欄に入る形で( A )・( B )の適語を答える・

( A )のヒント…サハラ / 7年に及ぶフランスからの独立戦争の末、建国

( B )のヒント…フランス大統領 / 独自外交の展開 / ( A )独立に対処

解答:A‐アルジェリア B‐ド=ゴール

 

:空欄の(  A  )が独立したことでサハラにおける核実験ができなくなったとあるので、アルジェリアであると分かります。第二次世界大戦後のフランス植民地の独立については、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)がよく出てきます。東京外語ではありませんが、東大の2012年問題の大論述はこの二つについての知識がないと書けない問題でした。また、フランスの戦後「独自外交」と言えばド=ゴールですね。これも基本知識だと思いますが、第五共和政の開始とド=ゴール政権の成立がアルジェリア戦争と密接に関係していることはよく勉強していないと見落としがちな部分なので注意が必要です。

 

(大問1-3)

概要:1956年のソ連共産党大会で批判された人物は誰か。

解答:スターリン

 

:フルシチョフによるスターリン批判は超重要な基本事項です。また、スターリン批判はその影響が各方面に波及したことでも知られていますので、簡単にではありますが以下にまとめておきます。

 

✤ スターリン批判の影響

・「雪解け」

:ソ連国内での言論抑圧が弱まり、東西冷戦の緩和と平和共存路線の模索へとつながる。

・反ソ暴動の発生(1956

:ポーランドとハンガリーで発生。ポーランドについてはゴムウカが事態を収拾。ハンガリーではソ連の軍事介入を招き、首相のナジ=イムレが処刑された。

・中ソ対立の開始

:平和共存路線をとるフルシチョフに対し、中国が批判的姿勢をとり始める(1962年頃から公開論争の開始)

 

(大問1-4)

概要:1963年に米・ソ・英が締結した調印した核実験をめぐる条約は何か。

解答:部分的核実験禁止条約(PTBT

 

:基本問題。1962年のキューバ危機との関係も含めて受験に際しては必須の知識。

 

(大問1-5)

概要:史料[]の史料中にある「私」とは誰か。

ヒント:史料のタイトルに「アメリカ合衆国大統領からソヴィエト連邦指導部への書簡」とあり、その日付が19621022日とある。また、内容がキューバにおけるミサイル基地配備の問題についてソ連側に適切な対処を求める内容。

解答:ケネディ

 

1962年のキューバ危機が思い浮かべば答えられる基本問題。

 

(大問1-6)

概要:史料[]の史料が出された当時のキューバの首相は誰か。

解答:カストロ

 

1959年のキューバ革命でカストロがバティスタ親米政権を倒したことがキューバとアメリカの緊張激化の原因。カストロはその後キューバの指導者となった。基本問題。

 

(大問2―1)

概要:米西戦争時のアメリカ合衆国大統領は誰か

解答:マッキンリー

 

:砲艦外交で知られる人物です。ハワイの併合や門戸開放宣言などもこの大統領の統治した時期に起こった出来事です。米西戦争はどの大学でも意外なほど出題頻度が高いので、注意が必要です。

 

(大問2-2)

概要:1917年のロシア革命勃発時のロシア皇帝は誰か

解答:ニコライ2

 

:基本問題です。

 

(大問2-3)

概要:インドで「非暴力・不服従」運動を指導した人物は誰か

解答:ガンディー

 

:基本問題です。

 

(大問2-4)

概要:フランス革命後に導入された度量衡法は何か。

解答:メートル法

 

:基本問題です

 

(大問2-5)

概要:1802年にヴェトナムを統一し、皇帝になったのは誰か

解答:阮福暎(嘉隆帝)

 

(大問2-6) 

概要:南京条約(1842)で清がイギリスに割譲した島はどこか

解答:香港島

 

:基本問題です

 

【小論述解説(40字、大問2-7)】

(設問概要)

:内容的に19世紀をとらえた場合に、1842年の南京条約締結を中国近代史の始まり(同時に帝国主義的侵略の始まり)とし、1919年の反帝国主義闘争の始まりを「現代史」ととらえることができるため、中国史については「長い19世紀」は当てはまらない(「短い19世紀」となる)が、同様のことは日本史にも言える。なぜ日本史に「長い19世紀」論が当てはまらないかを述べよ。

(解答)

:日本では1868年の明治維新の開始が近世史の終わりと近代史の始まりととらえられるため。(40字)

 

:あまりなじみのない設問かと思いますが、本文の内容と設問の内容がしっかり確認できれば難しい問題ではありません。ただ、意外に設問の意味が取りづらい可能性はあります。(上記の「設問概要」は設問を要約したもので、実際の設問は下線部⑦「これによれば、内容的に規定される19世紀は1840年代に始まることになる」を受けて、中国史同様、日本史に「長い19世紀」論が当てはまらない理由を述べよというものでした。) 解答については明治維新が日本近代史の始まりであることを示せば十分ですが、「短い19世紀」であることを示す必要がありますので、明治維新の開始時期を明示する必要はあると思います。

 

【大論述解説(500字、大問1-7)】

(設問概要)

・時期:第二次世界大戦中から1960年代半ばまで

・核軍備の増強、反発、均衡の歴史を具体的に説明せよ

・史料[][]と問1~問6の設問文をふまえること

・指定語句(使用箇所には下線)

:原子爆弾 / 北大西洋条約機構 / 放射能汚染 / 原水爆禁止運動 / フルシチョフ / 中華人民共和国

500字以内

 

<史料A:ニュージーランド元首相デービッド=ロンギの回想>

:史料自体は高校世界史では見慣れないものです。また、デービッド=ロンギの名前を聞くこともありません。内容はいたって平易なもので、ニュージーランドのオークランド近郊にいた若き日のロンギが、1962年に米国が遠く太平洋上のジョンストン島で行った核実験の残光を見て、非核への思いを強くした、というものです。また、ロンギは同年にフランスが核実験場をサハラから仏領南太平洋の島に移すことに対する反発についても語っています。

 本史料で注目すべき点としては、以下のような内容があげられます。

 

① 米国の太平洋上における核実験と、それに対する批判

 (特に、問1の第五福竜丸事件とその後の非核運動と絡めること)

② 1962年がキューバ危機の年であり、翌年の部分的核実験禁止条約へとつながること

 (問46や史料[]とも関係している点に注意)

③ 1962年はアルジェリアの独立年であり、仏の核実験場移転の背景となっていること

 (特に問2との関係が深い)

 

 また、解答作成と直接の関係はありませんが、ANZUS(太平洋安全保障条約)に当初加盟していたニュージーランドは、本史料の書き手であるデービッド=ロンギが首相に在任していた頃にニュージーランドの非核化を進めたため、ANZUSから実質的に離脱しています。現在は、オーストラリア・ニュージーランド間の防衛相会合(The Australia-New Zealand Defence Ministers' Meeting [ANZDMM])や、米国・ニュージーランド間の安全保障協力によってその関係の再構築が進んでいますが、ニュージーランドの非核化は継続しています。こうしたことが、本史料が提示されたことに背景にあるのだということを知っておくとより深い読みができるかと思いますが、設問は1960年代半ばまでが対象ですから、ニュージーランドのANZUS離脱までは書く必要はありません。(余談ですが、ANZUSはなぜか日本語では太平洋安全保障条約と訳されますが、正式名称はAustralia, New Zealand, United States Security Treaty[オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国安全保障条約]です。Aがオーストラリア、NZがニュージーランド、USがアメリカ合衆国ですから、参加国を記憶するのは簡単ですね。)

 

<史料B:サハロフの回想>

:サハロフはソ連の物理学者で、水爆の父とも称される人物です。一方で、後に反核運動に従事し、その平和活動や人権擁護活動が評価されて1975年にノーベル平和賞を受賞しましたが、ソ連内部ではこうしたサハロフの活動は冷ややかな目で受け止められました。ブレジネフの指導下で起こったアフガニスタン侵攻に反対したことから一時流刑とされましたが、ゴルバチョフの指導体制にかわると流刑が解除され、ペレストロイカに協力したため「ペレストロイカの父」とも称された人物です。

本史料はそんなサハロフの回想録で、「原水爆の開発に従事」→「第20回党大会をきっかけとする平和・反核運動への方針転換」→「核実験をめぐる自身の提言と1963年の米ソによるモスクワ協定の締結」という内容になっています。冷戦史や核関連の歴史について基本的知識が備わっていれば、この回想録の内容を理解することは難しいことではありません。ソ連の原爆開発が1949年、水爆開発が1953年ですから、サハロフがこれらの開発に関わっていたことは読み取れますし、1956年の第20回(共産)党大会はフルシチョフがスターリン批判を行い、平和共存を唱えた年です。また、1962年は上述の通りキューバ危機の発生した年であり、翌1963年には米・英・ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結されますから、資料中の「モスクワ協定」がこれのことを指しているのだろうということもわかるはずです。本史料の大切な部分をまとめると以下のようになります。

 

① ソ連による原水爆開発

② サハロフなど、科学者による反核運動

③ キューバ危機をきっかけとした部分的核実験禁止条約(PTBT)の締結

  PTBTというのは、Partial Test Ban Treatyの略です。(「部分的=Partial」ですね。Partが部分なので分かりやすいです。Testは試験とか実験、Banが禁止、Treatyが条約です。これに対して、1996年の包括的核実験禁止条約は「包括的=Comprehensive」ですので、CTBTとなります。世界史や政経などで出てくる略称は英語の正式名も知っておくと意外に英語なんかで役に立ったりします。

 

<史料C:米大統領からソ連指導部への書簡[19621022]

:本史料は一人称が「私」で、これは問5の内容にもなっていますが、1962年当時の米国大統領なのでケネディです。資料の内容もキューバ危機当時における米国の立場を示すもので、読み取り自体は平易です。本史料は資料の読み取りを要求するために示されたというよりは、これを示すことによって史料としては読み取りにくい史料A・Bの意味や方向性に気付かせるためのものと考えた方がいいでしょう。

 

(解答手順1:核開発と反核運動に関連する歴史を概観)

:核の歴史は教科書や参考書などではぶつ切りで出てくるので、なかなか全体像を把握しにくいのですが、少なくとも一度は何らかの形で全体の流れを知っておく方が良いと思います。おおよその流れは以下のようになります。また、これらの流れは自然に設問の要求する「核軍備の増強、反発、均衡の歴史」にも対応するものとなっています。

 

① 冷戦の拡大と核開発の進展[核軍備の増強の歴史]

:トリニティ実験(1945.7)で原爆の実験に成功したアメリカが広島に続いて長崎にも原爆を投下し(1945.8)、第二次世界大戦は終結しましたが、その後米ソ両大国の対立が先鋭化して冷戦構造が構築されていく中で、ソ連をはじめとする大国が核兵器の開発を進めていきます。各国の核兵器開発に成功した時期は以下の表の通りです。

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② 反核平和運動の拡大[核軍備への反発の歴史]

:アメリカに次いでソ連が1949年に原爆の保有宣言を出し、これに対抗したアメリカが水爆製造を開始すると、大国間の核開発・軍拡競争を危惧した人々から反核の声が上がり始めます。1950年にストックホルム(スウェーデン)で開催された平和擁護世界大会は、核兵器の禁止を訴えるいわゆる「ストックホルムアピール」を表明します。その後、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験(キャッスル=ブラボー実験)に巻き込まれて被爆した第五福竜丸事件などもあり、反核運動は勢いを増していきました。広島では1955年に第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。また、同年、哲学者のバートランド=ラッセルと物理学者アルベルト=アインシュタインが中心となってラッセル=アインシュタイン宣言が出され、科学者や第一級の知識人により核兵器の廃絶が訴えられました。さらに、1957年にはこれに刺激を受けてカナダでパグウォッシュ会議が開かれ、日本からも湯川秀樹や朝永振一郎らが参加して核兵器の使用に反対しました。

 

③ 核軍縮の進展[核軍備の均衡の歴史]

:多くの人が危惧していた核戦争の危険は、1960年代に入ってにわかに現実味を帯びてきます。1950年代半ば以降、フルシチョフの平和共存提唱から次第に関係が改善され、1959年にはフルシチョフの訪米が実現したものの、翌1960年に発生したU2型機撃墜事件(アメリカの偵察機U2型機が撃墜された事件)をきっかけに米ソ関係が緊張し、1961年のベルリンの壁構築、1962年のキューバ危機などを通して米ソ関係、東西関係は緊張の度を一気に増すこととなりました。なかでもキューバ危機において明らかになったキューバでの長距離ミサイル基地建設は、その射程にアメリカ東海岸が入ることが明白なことから当時の合衆国大統領ケネディにとっては看過し得ない事態でした。史料Cを見ると、当時のケネディの緊張感が伝わってくるのではないかと思います。このキューバ危機において、米ソ両国は核戦争の危機に直面したのですが、最終的には米ソ首脳の歩み寄りによって事態は収束へと向かっていきます。しかし、一歩間違えれば世界を巻き込む核戦争に突入しかねない状況にあることを再認識した両国は、首脳同士の直接対話回線(ホットライン)の設置に合意し、さらに核開発競争に一定の歯止めをかけるために1963年には部分的核実験禁止条約(PTBT)の締結にこぎつけました。これにより、条約に調印した米・ソ・英は地下以外(宇宙空間・大気圏・水中)での核実験を停止することとなりました。

一方、まだ十分に核実験を行えていなかったフランスや中国(上の表を参照)はこれに反発し、同条約への参加を見送ります。しかし、その後フランス、中国が水爆実験に成功すると、今度は米・英・仏・ソ・中以外の国が核兵器を持つことが懸念され始めました。こうした中、核の無秩序な拡大を嫌った核保有国は、核拡散防止条約(NPT)を締結し、核保有国(米・英・仏・ソ・中)以外の国が核兵器を持つことを禁止しました。



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Wikipedia「核拡散防止条約」より、投稿者Allstar86CC表示‐継承3.0

 

ですが、本設問では「1960年代半ばまで」となっておりますので、NPTについては解答に盛り込む必要はありません。(NPTの最初の調印は1968年ですが、「1960年代の半ば」といった場合、1965年頃までとなるはずで、1968年まで行ってしまうとさすがに「1960年代後半」になるかと思います。) ただ、設問要求にある「核軍備の均衡」ということを考えた場合、NPTまであった方がバランスはいいんだよな~、という気はします。(PTBTだと仏・中不参加で全然均衡してないじゃないか、となりますしね。) 核の不拡散については国連で採択されるのは1963年ですので、書いてあっても減点はされないかなぁという気もしますが、設問の設定時期は明確に「1960年代半ばまで」となっていますので、多少バランスの悪さを感じつつもPTBTで止めておくのが正解かと思います。

 

(解答手順2:指定語句の分析)

:問題概要でも書いた通り、指定語句は「原子爆弾」、「北大西洋条約機構」、「放射能汚染」、「原水爆禁止運動」、「フルシチョフ」、「中華人民共和国」です。解答手順1で示した流れのどの部分でも使える用語が多いですが、原爆については核開発の最初の部分で、北大西洋条約機構(NATO)については冷戦構造の形成の中で使うのが良いかと思います。また、「放射能汚染」や「原水爆禁止運動」については第五福竜丸事件などに絡めつつ反核平和運動の拡大の流れの中で述べれば良いですし、「フルシチョフ」についてはキューバ危機周辺の米ソ関係の中で使用すればOKです。問題は「中華人民共和国」ですが、定番の使い方はPTBT(部分的核実験禁止条約)への反対と不参加について述べることかと思いますが、書き方によっては中ソ間の技術協力とその後の関係破棄(中ソ技術協定の破棄)や、フランスや中国が核開発に成功したことによる核拡散への危惧について述べるというやり方もアリかなと思います。

 

(解答手順3:史料の分析)

:史料の分析についてはすでに上記の問題概要のところであげていますが、手順としては軽く史料の内容を確認したら、まずは「核関連史の概要把握」、そして「指定語句の確認」、最後に資料をより深く読解して、全体の中でどのように位置づけるかを検討するとバランス良く書き進めることができるように思います。

 

(解答例)

米国が第二次世界大戦中に広島と長崎に原子爆弾を投下すると、ソ連も続いて原爆を開発した。また、ソ連や東欧など共産圏の広がりを危惧した西側資本主義諸国が北大西洋条約機構を組織し、冷戦構造が作られたことは、核戦争や放射能汚染の拡大を危ぶむ人々に深い不安を与え、平和擁護世界大会でストックホルムアピールが表明されるなど、反核運動が強まった。さらに、米国がビキニ環礁で行った水爆実験により第五福竜丸事件が起こると、広島の原水爆禁止世界大会、ラッセル=アインシュタイン宣言に刺激を受けたパグウォッシュ会議など、原水爆禁止運動は勢いを増した。ソ連のフルシチョフによるスターリン批判と平和共存提唱により、一時は関係改善に向かった米ソであったが、1962年のキューバ危機で核戦争の危機に直面した。米大統領ケネディとフルシチョフは危機を回避したが、核の扱いに脅威を覚えた両首脳は、ソ連のサハロフの提言もあり、英国も巻き込んで部分的核実験禁止条約を締結して地下以外の核実験を禁止し、核兵器の制御を試みた。また、核の不拡散も目指したが、依然として原水爆開発を進めていたフランスや中華人民共和国は反発し、同条約への不参加を表明した。(500字)

 

書き方は色々あろうかと思いますが、基本は設問の要求通り、核軍備の「増強、反発、均衡」というフェーズにそってまとめていき、それに具体例を示しながら肉付けしてくことになります。(増強→米ソの原水爆開発と保有、キューバ危機など、反発→ストックホルムアピール、原水爆禁止世界大会、ラッセル=アインシュタイン宣言、パグウォッシュ会議など、均衡→部分的核実験禁止条約) 史料については、無理に解答の中に盛り込まなくても良いですが、使えるものがあれば書き入れても良いかもしれません。

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2021年の早稲田大学法学部の大論述は、テーマとしては極めてオーソドックスなものでした。18世紀の英仏対立や、オーストリアをめぐる問題は受験では頻出の箇所なので、ワセ法を受験するレベルの受験生であれば「知識として全く知らない」ということはおそらくなかったのではないかと思います。また、類題としては一橋大学の2019年Ⅱがかなり近い内容の出題をしておりますので、そちらも参考になるかと思います。今回のワセ法の問題と一橋2019Ⅱの問題の違いとしては、一橋が第二次百年戦争の開始[ファルツ継承戦争]やその背景からであるのに対して、ワセ法が1701[スペイン継承戦争]からであること、一橋の方は「英仏関係」や「世界史への影響」を問うているのに対し、ワセ法の方が英仏関係のみならず「英墺関係」も問うていること、(戦争を通しての)英仏関係、英墺関係の「変遷」について問うていることでしょう。ほぼ同一の内容を扱いつつも視点が異なりますので、それぞれでどういったアプローチをするべきか考えてみるのも良い練習になるかと思います。

注目すべき点としては、早稲田法学部の大論述で何よりもまず関係性の「変遷」を問う設問が2019年から3年続けて出題された点でしょう。(早稲田大学法学部の出題傾向についてはこちら。)こうした関係性の「変遷」を問う設問は従来から東京大学が好んで出題してきたスタイルですが、以前からお話している通り、ワセ法でもここ10年くらいで積極的に取り入れられるようになりました。そのため、授業で習った知識をただ羅列すればよいというスタイルの論述ではなく、設問の意図・指示にそって自分の頭の中で適切に情報を整理して書くことが要求されるものになっています。そうした意味で、ワセ法の論述の難度は確実に上がっていると思います。ただ、テーマ自体は多くの場合基本的なものを要求されています。字数は300字と東京大学などの600字論述と比べるとかなりコンパクトなので、冗長に書いてしまうと字数を簡単にオーバーしてしまいます。必要な情報は何かをしっかり確認して、できるだけ多く加点要素を文章の中に織り込む技術が必要になるでしょう。

また、時代的には18世紀史ということで、やはり近現代史は多く出題される傾向にあります。(2010年~2022年では、17世紀以降の歴史からの出題が全13回中11回(ただし、17世紀以前の歴史からの出題があった2回は2019年と2022年と、直近では近現代史以外からの出題も増えていることには注意が必要です。)

 

【1、設問確認】

・時期:17011763

・フランスおよびオーストリアに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

250字以上300字以内

・指定語句(語句には下線を付す)

スペイン / プロイセン / 外交革命 / フレンチ=インディアン戦争

 

:本設問の解答を作成するにあたって重要な点は、二つのことが答えとして求められていることをしっかりと把握することです。すなわち、

 ① フランスに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

 ② オーストリアに対するイギリスの対外的立場の変遷を説明せよ。

2点です。つまり、単なる英仏対立や植民地戦争、またはオーストリアとプロイセンの対立といった「ありがちな」18世紀国際政治史ではなく、イギリスがフランスとオーストリアに対して、どのような外交的姿勢を取り、それらがどのように「変化」したのかを示せ、と言っているわけです。いつも申し上げることではありますが、設問の求めているものをしっかりと確認して、そこから外れないようにすることが一番大切です。

 

【2、該当時期のヨーロッパの戦争、外交を整理】

:求められているのはイギリスのフランス・オーストリアに対する立場の変遷ですが、対外的立場というのは二国間のみの関係によって成立するものではありません。また、18世紀の国際政治は多くの戦争とそれにともなう関係の調整がたびたび起こった時代でもありますから、まずは18世紀の国際関係を大きく変動させたいくつかの戦争に注目することが必要です。

 この点、設問が1701年~1763年を時期として指定していることは非常に示唆的です。なぜかと言えば、1701年はスペイン継承戦争(17011713/14)の始まった年ですし、七年戦争が終わった年でもあります。いわゆる「第二次英仏百年戦争」の前半部分を中心とした時期ですので、方針としては「スペイン継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」とこれらと連動した植民地戦争についてまずは情報を整理した上で、その中から特にイギリス・フランス関係ならびにイギリス・オーストリア関係についてどのような「変遷」があったのかを確認するというのが良いかと思います。どの戦争も受験頻出のよく出てくるテーマではありますが、どのくらいしっかりと把握できているかということが、解答の出来の差に直結してくる気がします。要求されている知識は頻出の基本的知識ばかりですが、それらを正確に出して整序するとなるとそれなりの力が要求されます。受験生の力量をはっきりと見定められる良問ではないでしょうか。

 では、以下では「スペイン継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」とそれに関連する情報を整理しておきたいと思います。表中、ピンクで示してあるところは本設問にかかわらず受験で良く出題される内容で、基本事項です。まずはこちらがきちんと頭の中で整理できているかどうかを確認しておくと良いかと思います。

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A、スペイン継承戦争(17011713/1714

[基本的な構図]

  英(+墺、普など) vs 仏・西

[連動していた植民地戦争など] 

アン女王戦争(@北米)

[講和条約]

 ① 1713年 ユトレヒト条約

(主な内容)

・アカディア・ニューファンドランド・ハドソン湾地方割譲(仏→英)

・ジブラルタル・ミノルカ島割譲(西→英)

   ・アシエント特権を認める(西→英)

   ・スペインのフェリペ5世即位承認(スペイン=ブルボン朝成立)

   ・スペインとフランスの合邦禁止

・プロイセン公国が王号を承認される

② 1714年 ラシュタット条約

(主な内容)

・南ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルディニアなどを墺へ

 (旧スペイン=ハプスブルク領の多くがオーストリアへ)

 

:ユトレヒト条約については過去にもあちこちで書いています。(「一橋2019Ⅱ」「ユトレヒト条約は中身まで覚える!」など。) 内容も含めて頻出ですが、ストーリーを確認しておさえれば思い出しやすくなりますので、過去記事も参考にしてみてください。イギリスとフランス(+スペイン)の間の戦争はこの条約で終結します。

:ラシュタット条約はハプスブルク家とフランスの間で締結された条約です。この条約により、スペイン=ハプスブルク家が所有していたヨーロッパ各地の所領は、オーストリア=ハプスブルク家が所有することが確認されました。このあたりをしっかり把握できていると「なぜかつてスペイン領だった南ネーデルラント(オランダ独立戦争を思い出してみてください。)が、ウィーン会議においてはオーストリアからオランダに譲られることになるのか」や、「なぜリソルジメント(イタリア統一運動)において、ロンバルディア(ミラノ)がオーストリアとサルディニアの係争地となるのか」などについて、より深みのある理解をすることができます。

 

B、オーストリア継承戦争(174048

[基本的な構図]

 墺・英 vs 普・仏

[連動していた植民地戦争など]

 ・ジェンキンズの耳の戦争(@西インド諸島)

・ジョージ王戦争(@北米)

・第1次カーナティック戦争(@インド)

cf.) マドラスとポンディシェリ / デュプレクス

[講和条約]

 1748年 アーヘンの和約

(主な内容)

・シュレジェンの割譲(墺→普)

   ・プラグマティシュ=ザンクティオン(王位継承法)承認

    →マリア=テレジアのハプスブルク家の家督相続を承認

    (皇帝位は夫のフランツ1世)

   ・植民地については占領地の相互交換

 

:オーストリア継承戦争では植民地の移動などは起こりませんでした。主な内容はオーストリアからプロイセンへのシュレジェン割譲やマリア=テレジアのハプスブルク家継承確認などとなります。本設問では、戦後の処理よりはむしろ戦争中の対立・協力関係を確認しておくことの方が重要です。

 

C、七年戦争(175663

[基本的な構図]

墺・仏 vs 普・英 (外交革命)

[連動していた植民地戦争など]

 ・フレンチ=インディアン戦争(@北米)

 ・プラッシーの戦い(@インド)

・第3次カーナティック戦争(@インド)

・ブクサールの戦い(@インド)

[講和条約]

 ① 1763年 フベルトゥスブルク条約(墺・普)

(主な内容)

・シュレジェンをプロイセンが維持

② 1763年 パリ条約(英・仏)

(主な内容)

・カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ割譲(仏→英)

   ・フロリダ割譲(西→英)

   ・ミシシッピ以西のルイジアナ割譲(仏→西)

   ・インドにおけるイギリスの優越権

 

:七年戦争では、重要な国際関係上の変化として「外交革命」があります。これにより、フランスがヴァロワ家であったころから続いていたハプスブルク家との対立は解消され、同盟関係へと変化していきます。これにともない、フランスと対立していたイギリスも立ち位置を変え、それまで協力関係にあったオーストリアと敵対し、プロイセンと協力することになります。対外関係の変遷を問う本設問ではこの部分が最重要項目だと思います。

七年戦争後は、フランスの勢力が北米から一掃されます。また、インドについてもイギリスがフランスに対する優勢を決定づけることになりました。本設問ではこの部分も強調しておくべき点ですね。

 

【3、仏と墺に対する対外的立場の変遷を確認】

:上記の【2、該当時期のヨーロッパの戦争、外交を整理】で示した内容をもとに、イギリスのフランスに対する対外的立場の変遷、またイギリスのオーストリアに対する対外的立場の変遷を確認すると、概ね以下のようになるかと思います。

早稲田法学部2021_英仏墺関係図 - コピー

 当時の国際関係の変遷が本当にこれら3つの戦争だけで説明できるのか、と言われればまぁ、他にも考えるべきことはあるのかもしれませんが、少なくとも高校や大学受験で学習する「世界史B」の情報をもとにするのであればこの流れで書くのが妥当かと思います。一番大切なことは、戦争・講和条約やその内容を書き連ねただけでイギリスと仏・墺との関係に言及した気になってしまうことがないようにすることだと思います。

 

【解答例】

 スペイン継承戦争で、ブルボン家の勢力拡大を警戒する英・墺は協力して仏に対抗し、ユトレヒト条約でフェリペ5世のスペイン王即位を承認したものの、仏・西の合邦を禁止し、英は仏からアカディア・ニューファンドランド・ハドソン湾地方を獲得した。マリア=テレジア即位にプロイセンが反対したことで起こったオーストリア継承戦争でも、英は墺と協力し、仏とジョージ王戦争やカーナティック戦争を戦ったが、占領地はアーヘンの和約で返還された。仏・墺が外交革命で同盟した七年戦争では、英は墺と敵対し、仏とのフレンチ=インディアン戦争やプラッシーの戦いに勝利し、パリ条約で北米とインドの優越権を獲得して仏との植民地戦争に勝利した。(300字)

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(注:掲載当初、2003年の小論述が1問抜けていましたので、修正しました。[2022.3.31])

 今回は東大第2問の分析です。東大というと大論述が「どーん」とあるので、とかくそちらに意識が集中しがちですが、以前からたびたびお話している通り、大論述が「ガッツリ書けて」かつ「シッカリ点数が取れる」という受験生はまれです。合格点を考えても、内容的にも、大論述で点数が取れるようにすることも大切ではありますが、それ以上に2問、第3問で点数の取りこぼしをしないということを重視するべきなのです。ただ、第2問、第3問については東大受験生の最終的な(受験時の)平均値を考えた場合、ほとんどの問題は基礎的な内容にとどまり、教科書なり参考書なり用語集を見れば解決できてしまうので、特に当ブログでご紹介することはありませんでした。どうしても心配な場合には、東大過去問をベースにつくられた対策問題集などが市販されていますので(駿台の『テーマ別東大世界史論述問題集』など)、そうしたものや東大やその他100字前後の論述問題が収録されている問題集や他大過去問を解くことで練習しておくと良いでしょう。まれに、「むむ?これは!」と受験生をうならせるような難問が出題されることもあります。2008年の「ゴラン高原領有をめぐりイスラエルが主張の根拠とする1923年の境界はいかなる領域間の境界として定められたか」などは多少しんどいかなと思いますし、2002年の段階で「ジャーギール制とティマール制の共通の特徴」を問うのはちょっと無茶が過ぎるだろうと思います。(現在ではそこまで難しくはありませんが。)

ですが、これもしばしば申し上げるように、難しい問題は他の受験生もできません。ということは、その問題によって点差が開くことはほとんどないのであって、それを気にしても始まりません。(出題された翌年度以降は受験生にとっての共通認識になっていくので、ほったらかしにするのではなく、見直しはしっかりしておく必要があります。) むしろ「本番でオレ様ができない問題は周りもできねぇ。」と思えるくらいの自信を日々の学習で培っておくことの方が重要な気がします。

問題の内容的な面はともかく、出題の全体的な傾向を把握しておいて損はないかなと思いますので、1985年から2022年までに東大第2問で出題された問題のうち、論述問題(1行以上の字数で説明を求める問題)の一覧を作成し、簡単な傾向分析を行ってみました。これからご紹介する表をご参照いただくにあたって注意すべき点は以下の通りです。

 

① 一覧に示されているのは原則として設問の要求・概要です

② 一部、論述にくっついて用語を要求する設問などについては解答を示してあります

③ 「行数」は純粋に「〇〇行で書きなさい」という設問のみカウントし、単問式の設問に要する行数はカウントしていません

④ 1996年~2002年については単問式の設問数が多いため、論述問題以外は概要の表のデータから除外しました

⑤ 分野分析の各単元は、基本的には『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版の章立てに依拠していますが、一部タイトルを変更したり、まとめているものがあります

ex.) 「近世ヨーロッパ世界の形成」と「近世ヨーロッパ世界の展開」を「~の形成と展開」など

⑥ 対象となる設問がどの分野に属するかについては、設問の肝となる部分を考慮してキーとなる用語を索引で調べ、設問内容と照らして妥当と思われる箇所に分類しました(複数分野に重複して数えることは避けました)

⑦ 殷・周~秦・漢までは、中国史の出題とその他をはっきり分けてとらえたかったため、「内陸・東アジア世界の形成と展開」の方に含めています(本来はアジア・アメリカの古代文明に分類されていました)

 

【東大第2問:設問概要と論述問題の行数】

:表中の赤字は単問式設問の解答です。全体を通しての平均合計行数は11.6でした。


1985年~1989年)

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1990年~1999年)

画像2


2000年~2009年)

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2010年~2022年)

画像4

【東大第2問:分野別分析(1985年~2022年)】

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:「アジア諸地域の繁栄」、「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」、「内陸・東アジアの形成と展開」が上位3つとなりました。「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」は多少対象範囲が広いので参考程度ですが、やはり中国史関連の出題はかなり多いという印象を受けます。また、「アジア諸地域の繁栄」の数が多いのは、中国史(明・清)だけでなく、オスマン帝国やムガル帝国などの出題が多いことも原因です。「イスラームの形成と発展」はそこまで多くありませんが、近代史では民族運動とからんでイスラームと関係する出題が出されたり(ワッハーブ派など)、現代史ではパレスティナ問題にからむ設問がたびたび出題されるなど、やはり全体としてイスラームの印象も色濃い気がします。ヨーロッパ単体(ヨーロッパだけで話が完結する設問)は全体からすればそれほど割合は高くありません。目立って出題が少なかったのは「アジアアメリカの古代文明」でしたが、これは上述の通り「殷・周~秦・漢」を「内陸・東アジアの形成と展開」の方に含めて計算したことが影響しているかと思います。もっとも、「アジアアメリカの古代文明」からの出題のうちほとんどは初期仏教の誕生や伝播にかかわる設問で、古代アメリカからの出題は2000年の「インカ帝国の交通・情報手段(1行)」のみでした。

 

(分野別分析:2003年~2022年)

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 直近の20年ほど(2003年~2022年)で見ると、全体を通してみたときよりもアジア世界の優位性が相対化され、あまり目立たなくなっています。「オリエントと地中海世界」や「ヨーロッパ世界の形成と展開」の割合がやや増え、まんべんなく出題されている印象があります。

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東大の大論述では宗教にがっぷり四つで取り組ませる設問はそこまで頻繁ではありませんが、時折出題されます。ざっと10年おきくらいかなという気がします。とりあえず、私の主観で「うわ、宗教だわ」と感じる設問としてはこの年の出題以外ですと1991年あたり(イスラーム世界、西ヨーロッパ世界、南アジア世界の政治体制変化を問う設問。必然的に宗教政策が大きな問題となる)かなと思います。ただ、2021年については、地中海世界の3つの文化圏がテーマでしたが、イスラームの成立やピレンヌ=テーゼとも絡む設問で、「宗教の問題に着目しながら」とわざわざ注意書きがありましたし、1994年についてもモンゴル帝国と宗教(ほかに民族・文化も)の関係を問う設問で、かなり宗教的な要素について考えないと解けない設問でした。

その他の年についても、宗教を全く扱わないわけではなく、たとえば2011年のようにイスラーム文化圏をめぐる動きについて述べるような設問では宗教を避けるわけにはいきません。にもかかわらず、宗教をまったく、またはほとんど考慮しなくてもよいと思われる設問が過去20年で1112年分あることを考えれば、東大大論述では宗教はそこまで重要なファクターとはなっていない気もします。ただ、いつも申し上げることですが、「だから出ない」というわけではありません。東大では歴史に対する総合的な理解度を問う設問が出題されますので、マニアックな知識は不要であるにしても基本的な要素はしっかりと身につけておく必要があるでしょう。

 

【1、設問確認】

・時期:18世紀前半まで=信教の自由(または宗教的寛容)が広まる以前の時期

・世界各地の政治権力はその支配領域内の宗教・宗派をどのように取り扱っていたか

・世界各地の政治権力はその支配領域内の(各宗教集団に属する)人々をどのように取り扱っていたか

・西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げよ

・上記について3つの地域の特徴を比較せよ

20行(600字)以内で論ぜよ

・指定語句(使用箇所に下線)

:ジズヤ / 首長法 / ダライ=ラマ / ナントの王令廃止 / ミッレト / 理藩院 / 領邦教会制

 

:設問の要求には少し注意が必要です。宗教・宗派をどのように取り扱っていたのかに加えて、領域内に住む人々をどのように扱っていたのかについて聞いています。これらは、同じことを聞いている場合もありますが、異なる扱いを受けることもあります。たとえば、特定の宗教・宗派に対して寛容が認められた場合でも、個々人に対する扱いは存外に厳しいといったケースはありうるわけで、集団に属する個人がどのように扱われたのかについては少し丁寧に見ていく必要があるかと思います。また、本設問は「世界各地の」と言っているわりに、結局は西ヨーロッパ・西アジア・東アジアの3地域に限定されていることにも注意が必要です。さらに、終わりの時期ははっきりしているのですが、いつ頃からかなのかは判然としません。これについては指定語句からおおよその時期を判断するしかないかと思います。多少、設問の設定が甘いかなという気はします。

 

【2,指定語句を3地域ごとに整理】

:具体例を挙げるべき3地域がはっきりしていますので、指定語句を3地域ごとに整理してみると以下のようになります。

 

(西ヨーロッパ):首長法 / ナントの王令廃止 / 領邦教会制

(西アジア):ジズヤ / ミッレト

(東アジア):ダライ=ラマ / 理藩院

 

このように見てみると、おそらく西ヨーロッパについては宗教改革後のキリスト教世界、西アジアについてはオスマン帝国支配下のイスラーム世界、東アジアについては清朝支配下の中国を想定しているかと思います。ただ、東アジアについては他の世界とそろえる(首長法が1534年、宗教改革の開始[ルターの95か条の論題]1517年と考えれば16世紀あたりから)という意味と、イエズス会宣教師の活躍が明末から展開していたことなどを考えれば明の支配していたころまで広げた方がいいかと思います。

 

【3、18世紀以前の3地域はどのような宗教世界であったか】

:設問がアバウト(開始時期が不明な上、地域ごとの多様性も無視)なので、何を要求しているのかぱっと見にはわかりません。上の2で示した通り、指定語句などを参考に時期を16世紀~18世紀前半に限定した上で、3地域がどのような宗教世界であったかを簡単に把握して、関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(西ヨーロッパ)

:指定語句から絶対王政や宗教改革の展開される16世紀以降が主であることは想像できます。この世界は、ルネサンス以前の中世においてはアタナシウス派キリスト教(カトリック)が絶対の存在でしたが、中世末期には教皇権の失墜などによりそれが動揺します。ルネサンス期の人文主義などから教会批判が強まり、16世紀に入ってルターが展開した一連の教会批判をきっかけとして宗教改革が始まりました。その結果、それまで一つの宗教世界であった西ヨーロッパは分裂し、主として南ヨーロッパを中心とするカトリック世界と北西欧を中心とするプロテスタント世界へと分かれていきました。両派の対立は、宗教戦争へとつながり、各地においてそれぞれの宗派をどのように扱うかがルール化されていきます。

たとえば、ドイツにおいてはアウクスブルクの宗教和議やウェストファリア条約を通して領邦教会制が成立するとともに、カルヴァン派についても容認されるなど両派の住み分けが進んでいきましたが、個人単位の信仰の自由は認められませんでした。イギリスにおいても、ヘンリ8世の出した首長法、そしてエリザベス時代に出された統一法などを通してイングランド国教会(イギリス国教会)が成立・確立していき、国家の宗教は国王を首長とするイングランド国教会とされたものの、時代が進むにつれ、プロテスタントであれば非国教徒への一定レベルの寛容が認められていきます(cf. 寛容法[1689])。一方で、カトリックに対しては長く敵性宗教と扱いが続いていくことになりました(cf. 審査法[16731828廃止]、カトリック教徒解放法[1829])。

宗教が領邦単位、国家単位で管理されたドイツやイギリスに対して、フランスではユグノー戦争を経てアンリ4世のもとでナントの王令(勅令[1598])が出され、個人単位での信仰の自由が認められました。ですが、17世紀に入り絶対王政が確立して集権化が進むと、フォンテーヌブローの勅令でナントの王令が廃止され[1685]、ユグノーの信仰の自由は奪われ、商工業者の多かったユグノーたちは北西欧へと亡命していくことになります。

西ヨーロッパにおける状況は以上のようなものでしたが、これをポイントだけまとめていくと以下のような感じになるかと思います。政治権力による宗教・宗派の取り扱いやそれらに属する人々の取り扱いについて特に重要な部分については赤字で示してあります。

 

・キリスト教による支配→教皇権の失墜

・宗教改革→各国の政治権力が国家(支配領域)の宗教を管理

・宗派対立の存在

宗教支配については地域、時期によって差

 <ドイツ>

領邦教会制、個人単位の信仰の自由は認められない

 <イギリス>

:国教会による支配(首長法・統一法 / マイノリティに一定の寛容)

 <フランス>

:個人単位の侵攻の自由を認める

→集権化が進むとユグノーを迫害(ナントの王令廃止

・マイノリティの存在と迫害、対立(異端審問、ピューリタン、13植民地の形成など)

・大航海時代の開始と布教活動(イエズス会など)

 

(西アジア)

16世紀~18世紀前半の西アジア世界を考えた場合、この世界はオスマン帝国とサファヴィー朝の支配下にありました。これらの王朝のもとでは、イスラーム世界の原則に基づき、一定の条件下で異教徒にも信仰の自由と自治が認められました。このことをもって教科書などではイスラーム世界における異教徒政策を「寛容」と評価することが多いですが、一方で異教徒はあくまでジズヤの支払いを条件として信仰の自由が認められたのであって、ムスリムと平等に取り扱われたわけではありませんから、どのレベルで「寛容」であったのかという点には注意が必要かと思います。また、本設問は西アジア世界が対象なので、本設問では使えませんが、たとえば同じ時期の南アジアに存在していたムガル帝国ではアクバルのもとにおけるジズヤの廃止とアウラングゼーブによるジズヤの復活など、宗教政策の変化があったことにも注目しておくと良いでしょう。

 オスマン帝国とサファヴィー朝のうち、通常世界史の教科書や参考書などで国内の宗教政策などについて言及されることが多いのはオスマン帝国の方です。特に、ミッレトと呼ばれる非ムスリムによる宗教共同体を通して、納税を条件に各宗教共同体の慣習、信仰の自由、自治が認められたことはよく知られています(対象はギリシア正教徒、アルメニア教会、ユダヤ教徒など)。これはイスラーム世界におけるジズヤの支払いを代価として信仰の自由を保障するという伝統的な異民族統治の流れをくむものです。一方で、バルカン半島のキリスト教徒の子弟を強制的に徴用するデウシルメなどを通して、歩兵常備軍イェニチェリを形成するなど強権的な側面も持ち合わせていました。一方、支配領域外の異教徒とのかかわりについては、貿易などを通して盛んに諸外国と交流を持つなど比較的寛容で、特にフランスと結ばれたカピチュレーションと呼ばれる恩恵的通商特権についても、ご存じの方は多いかと思います。

 指定語句を見ても、以上の内容(オスマン帝国の宗教政策)を中心にまとめておけばまず安心ではあるのですが、「西アジア」が対象となっているのにサファヴィー朝を完全に無視するのもどうかと思いますので、これについてはサファヴィー朝がシーア派(十二イマーム派)を奉じてスンナ派のオスマン帝国と対立していた(西アジアでも宗派対立が存在した)ことなどを示しておけば十分かと思います。この点を示せば、西ヨーロッパ世界がカトリックとプロテスタントに分裂して宗派対立を繰り広げたこととの良い対比にもなると思います。以上の事柄をまとめると以下のようになります。

 

・一定の条件下で信仰の自由と自治を認める

ex.) オスマン帝国 / サファヴィー朝など  

cf.) 南アジアではムガル帝国(本設問では不要)

ジズヤの支払いによる信仰の自由

ミッレトを通した自治

・一部ではデウシルメなど、強権的な統治(ジズヤなども強権的ととらえ得る)

 cf.) 南アジア:ムガル帝国では一時的なジズヤの廃止[アクバルの時]

・宗派対立は存在(スンナ派とシーア派)

・対外的には寛容

 

(東アジア)

:国家単位、領主単位で信仰すべき宗教が決定されていた西ヨーロッパ世界や西アジア世界に対して、東アジア世界では特定の宗教が国教として個人に強制されることはあまりありませんでした。東アジア世界の中心である中国、16世紀~18世紀前半では明・清では、基本的に統一した宗教政策は存在せず、儒教・仏教・道教の三教が特に強い勢力をみって共存している世界でした。一方で、明末・清初にはイエズス会宣教師を重用し、諸外国とも交易を行うなど、外部の異教徒に対しては基本的に寛容であったと考えられます。支配領域における、伝統的な中国の文化宗教からするとやや異質な宗教集団・民族についても、藩部としてまとめて理藩院の監督下に自治と信仰の自由を認めるなど比較的寛容な宗教政策をとっていました。

一方で、こうした寛容さは、対象が国内統治にとって脅威となると認識された場合には失われ、弾圧を強めます。もっともよく知られているのは康煕帝から雍正帝の頃にかけて行われたキリスト教布教の禁止です。孔子などの聖人崇拝や祖先崇拝を当時のローマ教皇クレメンス11世が禁止したことをきっかけに、康熙帝の時代にはイエズス会宣教師以外によるキリスト教布教が禁止され、雍正帝の頃にはキリスト教布教が完全に禁止されます。また、国内の宗教でも白蓮教などについては反体制的な宗教として弾圧の対象とされました。(雍正帝がイエズス会も含めての禁令を出した背景の一つとして、皇帝即位前に争った弟の胤トウ(しめすへんに唐)をイエズス会士であったジョアン=モランが推したことや、康煕帝時代に急速に増大した信徒の数を警戒したことなどが指摘されています。(岡本さえ『世界史リブレット109 イエズス会と中国知識人』山川出版社、2008年、p.42

東アジアについては中国を書いておけば十分かとは思いますが、日本についても当初は受け入れていた南蛮人・紅毛人を、秀吉の時代には伴天連追放令、江戸幕府の頃にはいわゆる「鎖国」とキリスト教信仰の禁止が進められていきますから、対キリスト教・対ヨーロッパについて考えると、流れとしては似ていますね。

 

中国[明・清]では統一した宗教政策は無し(儒・仏・道の三教が共存)

・イエズス会宣教師の重用など、外来の宗教には寛容

理藩院を通した藩部の自治と信仰の自由

ex.) チベット仏教とダライ=ラマ、新疆におけるイスラーム信仰

事情によっては弾圧の対象とする宗教も

cf.) 白蓮教 / 典礼問題とキリスト教布教の禁止(康煕帝・雍正帝)

 

【4、3地域の特徴比較】

:本設問は「3つの地域の特徴を比較して」と要求していますので、上記3で絞り出したことをただ羅列するのではなく、できる限り比較する視点でまとめてみたいところです。その際にポイントになるのはやはり、政治権力が「宗教または宗派をどのように扱ったか」と同じく政治権力が「人々をどのように扱ったか」でしょう。この視点に基づいて各地域の特徴をピックアップしたのが以下の表になります。この表に基づいて、大枠をつくり、必要に応じて肉付けしていけば設問要求から大きく外れた解答にはならないと思います。

2009_東大_宗教政策比較 - コピー

【解答例】

カトリック支配が続いていた西ヨーロッパでは、教皇権の失墜と王権の伸長、そして宗教改革により各国の政治権力が支配地域の宗教を管理する体制が成立したが、ドイツでは三十年戦争後に領主が宗派を選び個人に信仰の自由のない領邦教会制が、イギリスではヘンリ8世の首長法に始まるイギリス国教会が成立するなど地域差があり、フランスではユグノーに個人単位の信仰の自由を認めたものの、絶対王政を展開したルイ14世のナントの王令廃止で弾圧に転じるなど時期による差もあった。西アジアではイスラーム王朝が異教徒に対しジズヤの支払いで信仰を認め、オスマン帝国ではミッレトにおける自治も認められた。対外的にも主に商業面で異教徒の出入りに寛容だったが、オスマン帝国のデウシルメなど一部では異教徒に対する強権支配も見られ、スンナ派王朝としてシーア派のサファヴィー朝との宗派対立も存在した。東アジアでは明・清を中心に儒・仏・道の三教が共存し、特に儒教的価値観は朝鮮や日本でも重視されたが、国家が特定の宗教を国教として強制はせず、イエズス会宣教師の重用など外来の宗教にも寛容だった。清では理藩院を通して藩部の自治と信仰の自由が認められ、チベット仏教とダライ=ラマの存在や新疆におけるイスラーム信仰などは保障されたが、白蓮教の弾圧や典礼問題を契機とする康煕帝・雍正帝によるカトリック布教の禁止など、反体制的とされた宗教は国家によって弾圧された。600字)

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2011年の東大大論述では、7世紀~13世紀までのアラブ・イスラーム圏文化圏の拡大ならびに異文化の需要と発展がテーマでした。2011年より前の大論述が10年近くにわたって主に近現代から出題されていた(15世紀以前が問われたのは、2007年の農業生産の変化とその意義を問う設問で一部が11世紀にかかっていたところを除けば、2001年のエジプト5000年の歴史に関する設問までさかのぼる)ことや、イスラームの文化圏を真正面から取り扱う設問が長らく出題されていなかったことなどから、この年の東大受験生にはやや唐突な感じのする設問だったように思います。どちらかというと、それまでの一橋に近い匂いを感じた受験生も多かったのではないでしょうか。本設問に近いものとしては、東大では1995年にだされた地中海とその周辺地域に興亡した文明と、それらの交流・対立を問う設問(前1世紀~後15世紀)まで見られません。ただ、問われている内容はかなり基本的なものですので、唐突な感じを受けつつも、比較的しっかりとした解答を書けた受験生も一定数いたと思われます。率直に言って、それほど面白味のある設問ではありません。注意すべき点があるとすれば、イスラームが外部から文化を取り入れてそれを自己のものとして消化した後、さらにその文化を他地域へと伝えて影響を与えるというように、交流・対立が「一度伝わって終わり」ではなく、「いくつかの変容を経て、さらに別の段階へとつながっていく」という様子を描き切れるかということでしょう。このあたりを設問の要求としてくるあたり、イスラーム文明が融合文明であるという特徴をよくとらえていると思います。

 

【1、設問確認】

・時期は7世紀から13世紀まで

・アラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じた以下の動きについて論ぜよ

①、イスラーム文化圏拡大の中で、新たな支配領域や周辺の他地域からことなる文化が受け入れられ、発展していったこと。

②、①で育まれたものが、さらに他地域へ影響を及ぼしたこと。

17行(510字以内)

・指定語句(使用箇所に下線を付す)

インド / アッバース朝 / イブン=シーナー / アリストテレス / 医学 / 代数学 / トレド / シチリア島

:リード文より、意識すべきは異なる文化間の接触や交流、軋轢、文化や生活様式の多様化と変容などになります。

 

【2、7世紀~13世紀のイスラーム世界(フレームワーク)】

:いきなり文化の受容・発展・伝播について書き連ねても良いのですが、リード文にもあるようにこれらの動きはイスラーム世界の拡大と連動しています。また、周辺世界の状況とも関係してきますので、文化だけを思い描いて思いついたものから書くという手法ではとりとめもなくただ出来事を箇条書きするだけの解答になってしまいかねません。そうしたことを避けるためにも、大まかで良いのでイスラーム世界の拡大がどのように展開されたか、イスラームの拡大にともなって周辺世界がどのように変化したかの枠組みは把握しておいた方が良いと思います。イスラーム世界の拡大については、概ね以下の内容を確認しておけば良いでしょう。(13世紀までなので、実際にはより細かい変化もあるのですが、最終的に書く内容は文化の受容・発展・伝播なのでこのくらいで十分かと思います。)

 

① ムハンマドの出現、イスラーム共同体の形成と拡大(ムハンマド~正統カリフ)

② イスラーム王朝の誕生(ウマイヤ朝~アッバース朝)

③ イスラーム世界の分裂と3カリフ鼎立(後ウマイヤ朝・ファーティマ朝・アッバース朝)

:イベリア/北アフリカ/西アジア~中央アジア

④ トルキスタン、インドのイスラーム化

⑤ ムスリム商人の活動

 

【3、イスラーム世界と周辺世界間の文化の伝播、社会の変容】

:では、続いてイスラーム世界はどのような文化を発展させ他の世界に伝わっていったのか、またどのように他の文化を受容したのかについてまとめてみたいと思います。まず、上にも書きましたがイスラーム文化は融合文明としての特徴を備えており、同じイスラーム文化でも地域によって異なる多様性を持っています。一方で、どの地域においても基本的には共通する要素もあります。本設問が要求する時期に発展したイスラーム文化として、多くの場合に見られる要素をいくつかピックアップすると以下のようなものになるかと思います。

 

アラビア語 / クルアーン / シャリーア / マドラサ / ウラマー / スーフィズム / 都市文明 / モスク / ワクフ / 市場(バーザール) / 隊商交易 / 小切手

 

外部世界とイスラームの関係について、教科書などで言及されるものをまとめたのが以下の表になります。こちらの表では、復習しやすいように文化に限らず、両者の交流が影響して生まれた制度や習俗、交易品なども含めて記載していますが、本設問で要求されているのは文化の発展と伝播になりますので、文化に関する部分のみ赤字で示しました。もっとも、設問のリード文では文化に限らず生活様式の多様化にも言及しています。そうした場合、制度の変化や習俗の変化、交易品を通しての生活の変化なども含まれると考えることができますので、そのようにとらえれば書くべき内容はもう少し幅広くなるかと思います。

画像12

① ビザンツ帝国(東欧世界)

:ビザンツ帝国とのかかわりの中では、イスラーム世界に流れ込んできたギリシア語文献をアラビア語に翻訳するための知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)がアッバース朝の7代カリフマームーンによってバグダードにつくられました。この中で、特にアリストテレス哲学を中心とするギリシア哲学の研究が進められていきます。また、外の世界から入ってきた学問は「外来の学問」として整備されていきます。

:一方で、イスラームの拡大はビザンツ帝国の国境防備の整備を促しました。7世紀のヘラクレイオス1世の頃から屯田兵制やテマ制(軍管区制)が導入され始めます。また、11世紀にセルジューク朝が迫った際にはこのテマ制はプロノイア制へと変化していくことになります。ただ、これらは基本的にはビザンツの国制の変化に関するものですので、本設問では記入の必要はありません。

 

② 西ヨーロッパ世界

:西ヨーロッパ世界の側からイスラームに対して与えた文化的影響というのは、教科書などではあまり示されません。実際、当時の西ヨーロッパは基本的には守勢に回っておりますし、カールの頃にようやくカロリング=ルネサンスと言い出し、大学にいたっては最古とされるボローニャ大学が11世紀に出てくるような状況ですので(ちなみに、知恵の館は9世紀前半、ファーティマ朝のアズハル学院は10世紀)、基本的には文化の伝播は「イスラーム世界→西ヨーロッパ世界」という構図で思い描いて差し支えないかと思います。

解答に必ず盛り込みたいのは12世紀ルネサンスと、その中でアラビア語文献がラテン語文献に翻訳されたという内容ですね。これと関連して、中心地としてのイベリア半島のトレド、シチリア島のパレルモや、具体例として医学(『医学典範』イブン=シーナー)、哲学(イブン=ルシュド)、スコラ学(『神学大全』、トマス=アクィナス)、大学の発展、ロジャー=ベーコン(数学の重要性、経験的な観察・実験)、地理学(イドリーシー『ルッジェーロの書』)、光学(イブン=ハイサム『光学の書』)などを示すことができるかと思います。挙げたもののうち、イブン=シーナーと医学典範、イブン=ルシュドとアリストテレス哲学、スコラ学の発展あたりが書ければ十分ではないでしょうか。また、表中では赤字(文化)としては入れていませんが、サトウキビ(砂糖)、オレンジ、ブドウなどの新たな産物の流入がもたらした生活の変化を文化の一部としてとらえるならそうした内容を書くことも可能かとは思います。

 

③ インド

:インドについては、イスラーム世界に伝えたものとしてゼロの概念があります。ここから代数学がフワーリズミーなどによって発展し、さらにそれがヨーロッパへと伝わっていきます。

:一方で、イスラーム世界からインドへの影響としてインド=イスラーム建築の成立、ウルドゥー語の形成などが挙げられます。インド=イスラーム建築としては奴隷王朝の祖、(クトゥブッディーン=)アイバクが築いたクトゥブ=ミナールというインド最古のミナレットが挙げられます。最近、模試などでも示されることが増えてきました。

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Wikipedia「クトゥブ=ミナール」より)

 

ウルドゥー語については、デリー周辺の方言にペルシア語やアラビア語の要素を取り入れて形成された言語で、ガズナ朝が侵入した時期の1213世紀が起源とされています。

 

④ 中央アジア

:中央アジアについてはあまり文化的交流について書かれることはありませんが、イスラームがトルキスタンに侵入したことを受けてマムルークが導入されたことをイスラーム世界の新習俗=文化とみなせば、そのようにとらえられないこともないかと思います。

 

⑤ 中国

:イスラーム世界が中国から受容したものとしては、製紙法、羅針盤、火薬などがあります。製紙法についてはタラス河畔の戦い(751)などにも言及できますね。最終的にはこれらの技術はヨーロッパへと伝わっていきます。また、中国絵画の技法がモンゴルによるユーラシアの一体化の中でイル=ハン国に伝わると、ここからイスラーム世界におけるミニアチュール(細密画)が発展していきます。また、陶磁器は交易品ではありますが、美術工芸としてとらえた場合には文化と考えることも可能でしょう。本設問では直接の関係はないですが、中国の陶磁器の発展にイランから輸入されたコバルトが利用されたことなども思い浮かべると良いですね。中国というよりはモンゴルとの交流の中で生まれてくるものとしてラシード=ア[]ッディーンの『集史』がありますが、これは14世紀のものなので本設問では利用ることができません。

:イスラーム世界から中国に伝わったものとしてはイスラーム天文学に言及しておけば良いでしょう。元の郭守敬が授時暦を作ったことを示しておけば十分です。もっとも、元の時代には色目人と呼ばれる西方由来の人々がやってきてもおりました。色目人の中にはイラン系のムスリムなどもいたわけですが、こうした人が財務官僚などとして活躍していましたので、こうした人々から財務処理に関する知識・技術が伝わったということはあったと思います。また、『説世界史研究』(山川出版社、2017年版)にはこうした色目人のうち、イラン系ムスリム商人がオルトク((あつ)(だつ))と呼ばれる共同出資制度を作ってユーラシア全域で活動した記載などもあります。(あつ)(だつ)については旧版の『改訂版詳説世界史研究』(山川出版社、2008年版)にも記載がありますので、両方を引用してみたいと思います。

 

 …イラン系のムスリム商人は、オルトク(仲間の意)といわれる会社組織をつくり、共同出資による巨大な資本力によってユーラシア全域で活動した。内陸の商業ルートと南シナ海・インド洋の海上ルートは、彼らの活動によって結びつけられた。ムスリム商人の商業活動はモンゴルの軍事力を背景としておこなわれ、またその利益の一部は、出資者であるモンゴル諸王家の手にはいった。このようにして、色目人の経済活動は、モンゴル人の軍事活動とともに、モンゴル帝国にとって不可欠の役割をはたしていたのである。(木村靖二ほか編『詳説世界史研究』山川出版社、2017年版、p.210

 

当時イスラーム世界の東部では銀が不足しており、中国から銀を持ち出せば交換レートの差により大きな利益がえられた。そこで斡脱と呼ばれたムスリム商人は、中国の銀を集めるため、科差のひとつである包銀の施行を元朝に提案したといわれる。包銀は中国初の銀による納税で、科差のもう片方の糸料(絹糸で納税する)とともに華北でしか施行されなかったが、納税者である農民に銀の需要を高めた。さらに斡脱は、こうした納税のために銀を必要とする農民相手に高利貸しを営み、複利式年利10割の高利で銀を搾りとってイスラーム世界に流出させた。また、この利率だと、元利ともに年々2倍になり、羊が子羊をどんどん産んでいくようすに似ているとして、羊羔利、羊羔児息と呼ばれて中国人に恐れられた。(木下康彦ほか編『改訂版詳説世界史研究』山川出版社、2008年版、p.150

 

これらを経済活動として見れば本設問とは関係ないのですが、金融知識の伝播ととらえれば文化の伝達の一環ととらえられないこともありません。

 

⑥ アフリカ

:イスラーム世界がアフリカから受けいれたものとしては黒人奴隷(ザンジュ)がありますが、奴隷制度自体は特にアフリカから導入したというわけでもないので、文化の伝播としてとらえる必要はない気がします。一方、イスラーム世界がアフリカに与えた影響としては東アフリカ沿岸のスワヒリ語あたりを示せれば十分かと思います。

 

地域別には上記のような内容がまとまっていれば良いかと思いますが、これをイスラームの拡大と関連して文章化するのであれば、大きく①「イスラーム側が文化を受容する時期(外来の学問の成立期)」と②「イスラーム文化が拡大・伝播する時期」に分けて考えるとすっきりしそうです。

 

【解答例】

 アラビア半島から勢力を拡大したイスラームは、各地にモスクやマドラサ、バーザールを築き、クルアーンと現地文化を融合した都市文明を発展させた。タラス河畔の戦いで西伝した製紙法をもとにアッバース朝では多くの文献が編纂され、文化の普及に寄与した。ビザンツから流入したギリシア文献がバグダードの知恵の館でアラビア語訳されて哲学、幾何学、天文学などが導入され、インドのゼロの概念からフワーリズミーが代数学を大成するなど、外来の学問も発達した。10世紀には中心地がカイロやコルドバへと拡大し、各地に伝播した。十字軍・東方貿易・レコンキスタを通して、トレドシチリア島のパレルモはイブン=シーナーの『医学典範』、イブン=ルシュドのアリストテレス研究がラテン語訳される中心地となり、大学設立や『神学大全』に大成されるスコラ学、医学が発展する12世紀ルネサンスが起こった。ムスリム商人の活動は東アフリカでスワヒリ語の成立、中国でコバルトを用いた陶磁器の作製を促し、インドへの侵入はウルドゥー語成立やクトゥブ=ミナール建造につながった。さらにモンゴルとの接触は元の郭守敬による授時暦や、中国絵画技法を取り入れたミニアチュールの成立へとつながった。(510字) 

 

解答例の方では判断が微妙なものは除いて、教科書等で頻出のものだけ使って書いてみましたが、それでも十分に510字分を埋めることは可能かと思います。

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