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タグ:歴史

【定期考査】

 

中国の官吏任用制は導入時期とセットでおさえておくと実際の問題を解くときに対応しやすくなります。

 

郷挙里選‐前漢(武帝)

九品中正法‐魏

科挙(選挙)‐隋

 

もちろん、官吏任用制に関してはたとえばそれぞれの制度の内容の違いや、九品中正法が門閥貴族を生み出す結果につながったこと(cf.「上品に寒門なく、下品に勢族なし」)や、「科挙」という名称が定着するのは唐の時代で隋のころは官吏任用を意味する「選挙」の語で呼ばれたことなど、細かい関連事項もあるのですが、これらのことをしっかり把握するには、意外に諸制度ならびに当時の社会に対する深い理解が必要になることが多いのです。そのため、関連事項まで出題するとなると事前の解説や問題自体が難しくなりすぎてしまいがちで、出題する側からすると出しにくく扱いにくい気がします。(難関校では出題されると思います。また、事前の授業がしっかりできている場合or受験者の側に深い理解を問いたい場合には少し突っ込んだ設問を作ることも可能だと思います。)

一方、「前漢から始まった官吏任用制はなんですか」、「隋で実質的に開始されたといわれる官吏任用制はなんですか」といった出題は一問一答的で出題しやすいですし、ある程度の正答率を期待することができます。(設問としての質が良いかどうかは置いておいて。) また、正誤問題などでも時期と名称をずらせば良いだけなので使いやすいですね。

 

基本的には隋の頃までの官吏任用制について、特に「郷挙里選・九品中正法(九品官人法)・科挙(選挙)がどの時代に導入されたか」が出題されることが多いのですが、これよりやや頻度が落ちる&出題の文脈が異なるものの、確認しておいた方が良い官吏任用制関連の知識には以下のようなものがあります。

 

・殿試‐北宋(趙匡胤:太祖)の頃に導入された皇帝による直接試問

・科挙の停止‐元の時代(モンゴル人優位の支配体制下で停止、14世紀初めに復活)

・科挙の廃止‐清末の光緒新政の中で廃止(1905

 

これらのうちですと北宋の殿試と趙匡胤の名前は比較的よく出題される気がします。


また、単純に中国の官吏任用制自体に限ると上に書いたものが最低限おさえるべき知識になるのですが、これらの官吏任用制は当時の社会階層の形成(ex. 門閥貴族、士大夫など)や、文化の形成と変遷(ex. 六朝文化、唐代の古文復興運動など)、政治的動向(ex. 前漢武帝期の儒学の官学化、董仲舒、北宋の文治主義など)、海外への影響(朝鮮やベトナムへの導入、ヨーロッパ啓蒙思想家への影響など)など、非常に広い範囲に関連付けられるテーマでもあります。こうした広がりまで把握できているのであれば、かなり世界史に対する理解は深まっていると思います。たとえば、東京大学の2000年大論述などはこのあたりの関連事項の把握が進んでいると取り組みやすいものになりますね。

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今回は早稲田大学文学部の簡単な出題傾向分析をしてみました。とりあえず、過去5年分について、各大問ごとの主要テーマと、出題ごとの範囲分析を行いました。毎度のことですが、分類はやや粗い部分もあるかと思いますので、必ずしも厳密なものではありません。たとえば、選択肢が複数あって、それら選択肢が「古代~現代」にわたっている場合などは分類がしにくいのですね。ただ、早稲田の文学部はわりとそのへんはっきりしていて、一つの設問の中に複数の範囲が含まれるような問題はあまり出題されていません。それでも複数の範囲にわたっている場合には、大問の主要テーマ、出題の内容、解答などから照らして妥当だと思われる範囲に振り分けています。

(大問ごとの主要テーマ)
早稲田文学部出題傾向分析2
:大問1でこれでもかと古代オリエント~地中海世界が出てきますので、古代オリエント、古代ギリシア、ヘレニズムあたりは必須です。一方で、アケメネス朝や古代ローマはあまり出題頻度が高くないような印象を受けます。よく出てくるのは、シュメール人以降の古代オリエントにおける諸民族の興亡や活動、古代エジプト関連の出題でしょうか。
他によく出題されるのは中国史の中でも秦・漢・魏晋南北朝・隋・唐・五代・元・明~清初でしょうか。意外に宋がらみはそんなに出題されていない(皆無ではないですが)印象があります。また、中国の近現代史(清朝末期以降)もあまり出ている印象はありません。明朝ではイエズス会宣教師がらみの出題がわりと高い頻度で出てくる印象です。
また、ヨーロッパ中世史も高い頻度で出題されます。2019年こそフランク王国が出てきましたが、それ以外はおおむね10世紀以降、西ヨーロッパの教会制度が整備されて以降の歴史が多く出題されている印象です。また、ヨーロッパ近世史の方ではイギリス・フランス関連の歴史はよく出てきます。特にルイ14世期の周辺の歴史は必須かと思います。中世については、フランク~ルネサンスまでの歴史をドイツ・イタリア・フランス・イギリスなどを中心に(一部、ビザンツ関連の出題がありますが、基本問題です。)学習し、近世史についてはルネサンス・大航海時代・宗教改革のあたりからスペイン継承戦争のあたりまでを手厚く学習しておくと良いでしょう。
近代史・現代史についてはわりとテーマが散っている印象です。それほど難しい問題は出題されず、全て基本問題の範囲内であるように思います。ヨーロッパによるアジア・アフリカの植民地化と民族運動、二つの世界大戦、冷戦に関連して、代表的なテーマを抑えておくとよいでしょう。

(各設問の出題範囲分析)
早稲田文学部出題傾向分析1
:設問ごとに、解答がどの範囲に関係しているものかを分析したのが上の表になります。範囲については山川出版社『詳説世界史研究』2017年度版の章立てを利用しました。もっと細かく分けても良かったのですが、煩雑になってしまうので。また、厄介なことに2017年版『詳説世界史研究』は19世紀・20世紀の文化史をごそっと削ってしまったので、載っていないものもありました。(なんとシュールレアリスムが索引に載っていない!セザンヌやピカソすらない![一応、ピカソはゲルニカの注のところに名前だけ出ていましたが、キュビズム云々は影も形もない。] それなのに「世紀末文化とベルエポック」とかいう項目があったりする[汗]。)こうした掲載されていないものについては、山川用語集の掲載場所から妥当だと思われる範囲に振り分けています。
過去5年間についてですが、ご覧の通り先史時代からの出題はありません。また、意外に19世紀以降の歴史はそれほど出題頻度が高くありません。(2023年に「近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立」で8題出ているのも、ナポレオン関連(テルミドールのクーデタ~ブリュメールのクーデタまで)がごそっと出たためで、どちらかというとフランス革命の延長線上にあるものと考えられます。また、イスラーム史についても申し訳程度にしか出てきていません。(イスラーム史は昨年度に限って言えばいつもよりもやや多かったです。また、この5年でカーリミー商人がたしか2回出て来ました。)
特に出題頻度の高かった(全体に対する割合が10%を超えてきたものは黄色で示しました)範囲は、大問ごとの主要テーマの方で印象として語ったように、やはり「オリエントと地中海世界」、「内陸アジア世界・東アジア世界の形成」、「ヨーロッパ世界の形成と発展」、「近世ヨーロッパ世界の形成」からの出題が多かったです。

(その他)
:早稲田大学文学部の世界史では、2019年までは数十字の論述問題が出題されていましたが、2020年以降は論述問題の出題はありません。(ちなみに、2019年の問題はアカプルコ貿易が中国[明]の社会経済に及ぼした影響について90字で書かせるものでした。[指定語句はラテンアメリカ・マニラ・一条鞭法]) また、これまで大問は8題(まれに9題)の構成でしたが、2023年のみ7題での構成となっています。どこかの大問で文化史についての出題が毎年出て来ますが、印象派など近現代の美術史を多く出題する文化構想学部の出題とは異なり、文学部の文化史問題はわりと多くの時代から、まんべんなく、基本事項を聞いてくるもので、特別な対策は不要であるように思います。「あまりにも文化史ができない」という人だけ、各時代の文化史の基本事項を簡単におさらいしておくと良いでしょう。

以上、簡単な分析をしてまいりましたが、これらはあくまで過去5年分程度の簡単な分析にすぎません。「出題傾向」などというものは時としてガラっと変わってしまうこともありますので、その辺のところをよくご理解の上、参考になるものがあればお使いください。
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【共通テスト】

 

世界史において、中国史の中でも秦・漢帝国は頻出の単元です。なかでも、始皇帝や前漢の武帝などについてはよく勉強をしてその政策の中身まで覚えていらっしゃる受験生の方も多いのではないかと思います。(本コーナーでも以前ご紹介いたしました。

 

一方で、秦・前漢・後漢はいつ頃に存在した王朝だったのかをしっかり把握している方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。ある国がいつ頃存在していて、それが別の地域ではいつ頃にあたるのかを把握するのは意外に大変です。もちろん、重要な出来事の年号を覚えるという形でも把握はできるのですが、前漢と後漢については紀元をはさんでざっと200年前までが前漢、200年後までが後漢と把握しておくと便利です。すると、秦は前漢の前なので前3世紀ごろが始皇帝の時代となるわけですね。

ちなみに、前漢・後漢の正確な年代は、その途中に成立した新も含めると以下のようになります。

 

・前漢:前202-8

・新:後8-23

・後漢:後25-220

 

もちろん、正確には前漢は前3世紀の末から後1世紀までですし、後漢も後3世紀まで続くのですが、だいたいのイメージとしてはこんな感じなんですね。

プレゼンテーション1 - コピー

これが把握できると、横のつながりの確認が容易になります。たとえば、ローマ帝国もちょうど紀元をはさんで共和政と帝政が変化する頃ですし、帝政に入って200年ほどはパクス=ロマーナの時代が続きます。逆に言えば、200年たつとパクス=ロマーナは終わる(=軍人皇帝時代に入る)ので、「前漢の頃=ローマは共和政の末期」、「後漢の頃=ローマはパクス=ロマーナ」、「三国時代=ローマは軍人皇帝時代」のように把握することができます。案外便利ですよ。

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(注:掲載当初、2003年の小論述が1問抜けていましたので、修正しました。[2022.3.31])

 今回は東大第2問の分析です。東大というと大論述が「どーん」とあるので、とかくそちらに意識が集中しがちですが、以前からたびたびお話している通り、大論述が「ガッツリ書けて」かつ「シッカリ点数が取れる」という受験生はまれです。合格点を考えても、内容的にも、大論述で点数が取れるようにすることも大切ではありますが、それ以上に2問、第3問で点数の取りこぼしをしないということを重視するべきなのです。ただ、第2問、第3問については東大受験生の最終的な(受験時の)平均値を考えた場合、ほとんどの問題は基礎的な内容にとどまり、教科書なり参考書なり用語集を見れば解決できてしまうので、特に当ブログでご紹介することはありませんでした。どうしても心配な場合には、東大過去問をベースにつくられた対策問題集などが市販されていますので(駿台の『テーマ別東大世界史論述問題集』など)、そうしたものや東大やその他100字前後の論述問題が収録されている問題集や他大過去問を解くことで練習しておくと良いでしょう。まれに、「むむ?これは!」と受験生をうならせるような難問が出題されることもあります。2008年の「ゴラン高原領有をめぐりイスラエルが主張の根拠とする1923年の境界はいかなる領域間の境界として定められたか」などは多少しんどいかなと思いますし、2002年の段階で「ジャーギール制とティマール制の共通の特徴」を問うのはちょっと無茶が過ぎるだろうと思います。(現在ではそこまで難しくはありませんが。)

ですが、これもしばしば申し上げるように、難しい問題は他の受験生もできません。ということは、その問題によって点差が開くことはほとんどないのであって、それを気にしても始まりません。(出題された翌年度以降は受験生にとっての共通認識になっていくので、ほったらかしにするのではなく、見直しはしっかりしておく必要があります。) むしろ「本番でオレ様ができない問題は周りもできねぇ。」と思えるくらいの自信を日々の学習で培っておくことの方が重要な気がします。

問題の内容的な面はともかく、出題の全体的な傾向を把握しておいて損はないかなと思いますので、1985年から2022年までに東大第2問で出題された問題のうち、論述問題(1行以上の字数で説明を求める問題)の一覧を作成し、簡単な傾向分析を行ってみました。これからご紹介する表をご参照いただくにあたって注意すべき点は以下の通りです。

 

① 一覧に示されているのは原則として設問の要求・概要です

② 一部、論述にくっついて用語を要求する設問などについては解答を示してあります

③ 「行数」は純粋に「〇〇行で書きなさい」という設問のみカウントし、単問式の設問に要する行数はカウントしていません

④ 1996年~2002年については単問式の設問数が多いため、論述問題以外は概要の表のデータから除外しました

⑤ 分野分析の各単元は、基本的には『詳説世界史研究』山川出版社、2017年度版の章立てに依拠していますが、一部タイトルを変更したり、まとめているものがあります

ex.) 「近世ヨーロッパ世界の形成」と「近世ヨーロッパ世界の展開」を「~の形成と展開」など

⑥ 対象となる設問がどの分野に属するかについては、設問の肝となる部分を考慮してキーとなる用語を索引で調べ、設問内容と照らして妥当と思われる箇所に分類しました(複数分野に重複して数えることは避けました)

⑦ 殷・周~秦・漢までは、中国史の出題とその他をはっきり分けてとらえたかったため、「内陸・東アジア世界の形成と展開」の方に含めています(本来はアジア・アメリカの古代文明に分類されていました)

 

【東大第2問:設問概要と論述問題の行数】

:表中の赤字は単問式設問の解答です。全体を通しての平均合計行数は11.6でした。


1985年~1989年)

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1990年~1999年)

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2000年~2009年)

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2010年~2022年)

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【東大第2問:分野別分析(1985年~2022年)】

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:「アジア諸地域の繁栄」、「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」、「内陸・東アジアの形成と展開」が上位3つとなりました。「アジア諸地域の動揺~帝国主義とアジアの民族運動」は多少対象範囲が広いので参考程度ですが、やはり中国史関連の出題はかなり多いという印象を受けます。また、「アジア諸地域の繁栄」の数が多いのは、中国史(明・清)だけでなく、オスマン帝国やムガル帝国などの出題が多いことも原因です。「イスラームの形成と発展」はそこまで多くありませんが、近代史では民族運動とからんでイスラームと関係する出題が出されたり(ワッハーブ派など)、現代史ではパレスティナ問題にからむ設問がたびたび出題されるなど、やはり全体としてイスラームの印象も色濃い気がします。ヨーロッパ単体(ヨーロッパだけで話が完結する設問)は全体からすればそれほど割合は高くありません。目立って出題が少なかったのは「アジアアメリカの古代文明」でしたが、これは上述の通り「殷・周~秦・漢」を「内陸・東アジアの形成と展開」の方に含めて計算したことが影響しているかと思います。もっとも、「アジアアメリカの古代文明」からの出題のうちほとんどは初期仏教の誕生や伝播にかかわる設問で、古代アメリカからの出題は2000年の「インカ帝国の交通・情報手段(1行)」のみでした。

 

(分野別分析:2003年~2022年)

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 直近の20年ほど(2003年~2022年)で見ると、全体を通してみたときよりもアジア世界の優位性が相対化され、あまり目立たなくなっています。「オリエントと地中海世界」や「ヨーロッパ世界の形成と展開」の割合がやや増え、まんべんなく出題されている印象があります。

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東大の大論述では宗教にがっぷり四つで取り組ませる設問はそこまで頻繁ではありませんが、時折出題されます。ざっと10年おきくらいかなという気がします。とりあえず、私の主観で「うわ、宗教だわ」と感じる設問としてはこの年の出題以外ですと1991年あたり(イスラーム世界、西ヨーロッパ世界、南アジア世界の政治体制変化を問う設問。必然的に宗教政策が大きな問題となる)かなと思います。ただ、2021年については、地中海世界の3つの文化圏がテーマでしたが、イスラームの成立やピレンヌ=テーゼとも絡む設問で、「宗教の問題に着目しながら」とわざわざ注意書きがありましたし、1994年についてもモンゴル帝国と宗教(ほかに民族・文化も)の関係を問う設問で、かなり宗教的な要素について考えないと解けない設問でした。

その他の年についても、宗教を全く扱わないわけではなく、たとえば2011年のようにイスラーム文化圏をめぐる動きについて述べるような設問では宗教を避けるわけにはいきません。にもかかわらず、宗教をまったく、またはほとんど考慮しなくてもよいと思われる設問が過去20年で1112年分あることを考えれば、東大大論述では宗教はそこまで重要なファクターとはなっていない気もします。ただ、いつも申し上げることですが、「だから出ない」というわけではありません。東大では歴史に対する総合的な理解度を問う設問が出題されますので、マニアックな知識は不要であるにしても基本的な要素はしっかりと身につけておく必要があるでしょう。

 

【1、設問確認】

・時期:18世紀前半まで=信教の自由(または宗教的寛容)が広まる以前の時期

・世界各地の政治権力はその支配領域内の宗教・宗派をどのように取り扱っていたか

・世界各地の政治権力はその支配領域内の(各宗教集団に属する)人々をどのように取り扱っていたか

・西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げよ

・上記について3つの地域の特徴を比較せよ

20行(600字)以内で論ぜよ

・指定語句(使用箇所に下線)

:ジズヤ / 首長法 / ダライ=ラマ / ナントの王令廃止 / ミッレト / 理藩院 / 領邦教会制

 

:設問の要求には少し注意が必要です。宗教・宗派をどのように取り扱っていたのかに加えて、領域内に住む人々をどのように扱っていたのかについて聞いています。これらは、同じことを聞いている場合もありますが、異なる扱いを受けることもあります。たとえば、特定の宗教・宗派に対して寛容が認められた場合でも、個々人に対する扱いは存外に厳しいといったケースはありうるわけで、集団に属する個人がどのように扱われたのかについては少し丁寧に見ていく必要があるかと思います。また、本設問は「世界各地の」と言っているわりに、結局は西ヨーロッパ・西アジア・東アジアの3地域に限定されていることにも注意が必要です。さらに、終わりの時期ははっきりしているのですが、いつ頃からかなのかは判然としません。これについては指定語句からおおよその時期を判断するしかないかと思います。多少、設問の設定が甘いかなという気はします。

 

【2,指定語句を3地域ごとに整理】

:具体例を挙げるべき3地域がはっきりしていますので、指定語句を3地域ごとに整理してみると以下のようになります。

 

(西ヨーロッパ):首長法 / ナントの王令廃止 / 領邦教会制

(西アジア):ジズヤ / ミッレト

(東アジア):ダライ=ラマ / 理藩院

 

このように見てみると、おそらく西ヨーロッパについては宗教改革後のキリスト教世界、西アジアについてはオスマン帝国支配下のイスラーム世界、東アジアについては清朝支配下の中国を想定しているかと思います。ただ、東アジアについては他の世界とそろえる(首長法が1534年、宗教改革の開始[ルターの95か条の論題]1517年と考えれば16世紀あたりから)という意味と、イエズス会宣教師の活躍が明末から展開していたことなどを考えれば明の支配していたころまで広げた方がいいかと思います。

 

【3、18世紀以前の3地域はどのような宗教世界であったか】

:設問がアバウト(開始時期が不明な上、地域ごとの多様性も無視)なので、何を要求しているのかぱっと見にはわかりません。上の2で示した通り、指定語句などを参考に時期を16世紀~18世紀前半に限定した上で、3地域がどのような宗教世界であったかを簡単に把握して、関連事項を整理する必要があるでしょう。

 

(西ヨーロッパ)

:指定語句から絶対王政や宗教改革の展開される16世紀以降が主であることは想像できます。この世界は、ルネサンス以前の中世においてはアタナシウス派キリスト教(カトリック)が絶対の存在でしたが、中世末期には教皇権の失墜などによりそれが動揺します。ルネサンス期の人文主義などから教会批判が強まり、16世紀に入ってルターが展開した一連の教会批判をきっかけとして宗教改革が始まりました。その結果、それまで一つの宗教世界であった西ヨーロッパは分裂し、主として南ヨーロッパを中心とするカトリック世界と北西欧を中心とするプロテスタント世界へと分かれていきました。両派の対立は、宗教戦争へとつながり、各地においてそれぞれの宗派をどのように扱うかがルール化されていきます。

たとえば、ドイツにおいてはアウクスブルクの宗教和議やウェストファリア条約を通して領邦教会制が成立するとともに、カルヴァン派についても容認されるなど両派の住み分けが進んでいきましたが、個人単位の信仰の自由は認められませんでした。イギリスにおいても、ヘンリ8世の出した首長法、そしてエリザベス時代に出された統一法などを通してイングランド国教会(イギリス国教会)が成立・確立していき、国家の宗教は国王を首長とするイングランド国教会とされたものの、時代が進むにつれ、プロテスタントであれば非国教徒への一定レベルの寛容が認められていきます(cf. 寛容法[1689])。一方で、カトリックに対しては長く敵性宗教と扱いが続いていくことになりました(cf. 審査法[16731828廃止]、カトリック教徒解放法[1829])。

宗教が領邦単位、国家単位で管理されたドイツやイギリスに対して、フランスではユグノー戦争を経てアンリ4世のもとでナントの王令(勅令[1598])が出され、個人単位での信仰の自由が認められました。ですが、17世紀に入り絶対王政が確立して集権化が進むと、フォンテーヌブローの勅令でナントの王令が廃止され[1685]、ユグノーの信仰の自由は奪われ、商工業者の多かったユグノーたちは北西欧へと亡命していくことになります。

西ヨーロッパにおける状況は以上のようなものでしたが、これをポイントだけまとめていくと以下のような感じになるかと思います。政治権力による宗教・宗派の取り扱いやそれらに属する人々の取り扱いについて特に重要な部分については赤字で示してあります。

 

・キリスト教による支配→教皇権の失墜

・宗教改革→各国の政治権力が国家(支配領域)の宗教を管理

・宗派対立の存在

宗教支配については地域、時期によって差

 <ドイツ>

領邦教会制、個人単位の信仰の自由は認められない

 <イギリス>

:国教会による支配(首長法・統一法 / マイノリティに一定の寛容)

 <フランス>

:個人単位の侵攻の自由を認める

→集権化が進むとユグノーを迫害(ナントの王令廃止

・マイノリティの存在と迫害、対立(異端審問、ピューリタン、13植民地の形成など)

・大航海時代の開始と布教活動(イエズス会など)

 

(西アジア)

16世紀~18世紀前半の西アジア世界を考えた場合、この世界はオスマン帝国とサファヴィー朝の支配下にありました。これらの王朝のもとでは、イスラーム世界の原則に基づき、一定の条件下で異教徒にも信仰の自由と自治が認められました。このことをもって教科書などではイスラーム世界における異教徒政策を「寛容」と評価することが多いですが、一方で異教徒はあくまでジズヤの支払いを条件として信仰の自由が認められたのであって、ムスリムと平等に取り扱われたわけではありませんから、どのレベルで「寛容」であったのかという点には注意が必要かと思います。また、本設問は西アジア世界が対象なので、本設問では使えませんが、たとえば同じ時期の南アジアに存在していたムガル帝国ではアクバルのもとにおけるジズヤの廃止とアウラングゼーブによるジズヤの復活など、宗教政策の変化があったことにも注目しておくと良いでしょう。

 オスマン帝国とサファヴィー朝のうち、通常世界史の教科書や参考書などで国内の宗教政策などについて言及されることが多いのはオスマン帝国の方です。特に、ミッレトと呼ばれる非ムスリムによる宗教共同体を通して、納税を条件に各宗教共同体の慣習、信仰の自由、自治が認められたことはよく知られています(対象はギリシア正教徒、アルメニア教会、ユダヤ教徒など)。これはイスラーム世界におけるジズヤの支払いを代価として信仰の自由を保障するという伝統的な異民族統治の流れをくむものです。一方で、バルカン半島のキリスト教徒の子弟を強制的に徴用するデウシルメなどを通して、歩兵常備軍イェニチェリを形成するなど強権的な側面も持ち合わせていました。一方、支配領域外の異教徒とのかかわりについては、貿易などを通して盛んに諸外国と交流を持つなど比較的寛容で、特にフランスと結ばれたカピチュレーションと呼ばれる恩恵的通商特権についても、ご存じの方は多いかと思います。

 指定語句を見ても、以上の内容(オスマン帝国の宗教政策)を中心にまとめておけばまず安心ではあるのですが、「西アジア」が対象となっているのにサファヴィー朝を完全に無視するのもどうかと思いますので、これについてはサファヴィー朝がシーア派(十二イマーム派)を奉じてスンナ派のオスマン帝国と対立していた(西アジアでも宗派対立が存在した)ことなどを示しておけば十分かと思います。この点を示せば、西ヨーロッパ世界がカトリックとプロテスタントに分裂して宗派対立を繰り広げたこととの良い対比にもなると思います。以上の事柄をまとめると以下のようになります。

 

・一定の条件下で信仰の自由と自治を認める

ex.) オスマン帝国 / サファヴィー朝など  

cf.) 南アジアではムガル帝国(本設問では不要)

ジズヤの支払いによる信仰の自由

ミッレトを通した自治

・一部ではデウシルメなど、強権的な統治(ジズヤなども強権的ととらえ得る)

 cf.) 南アジア:ムガル帝国では一時的なジズヤの廃止[アクバルの時]

・宗派対立は存在(スンナ派とシーア派)

・対外的には寛容

 

(東アジア)

:国家単位、領主単位で信仰すべき宗教が決定されていた西ヨーロッパ世界や西アジア世界に対して、東アジア世界では特定の宗教が国教として個人に強制されることはあまりありませんでした。東アジア世界の中心である中国、16世紀~18世紀前半では明・清では、基本的に統一した宗教政策は存在せず、儒教・仏教・道教の三教が特に強い勢力をみって共存している世界でした。一方で、明末・清初にはイエズス会宣教師を重用し、諸外国とも交易を行うなど、外部の異教徒に対しては基本的に寛容であったと考えられます。支配領域における、伝統的な中国の文化宗教からするとやや異質な宗教集団・民族についても、藩部としてまとめて理藩院の監督下に自治と信仰の自由を認めるなど比較的寛容な宗教政策をとっていました。

一方で、こうした寛容さは、対象が国内統治にとって脅威となると認識された場合には失われ、弾圧を強めます。もっともよく知られているのは康煕帝から雍正帝の頃にかけて行われたキリスト教布教の禁止です。孔子などの聖人崇拝や祖先崇拝を当時のローマ教皇クレメンス11世が禁止したことをきっかけに、康熙帝の時代にはイエズス会宣教師以外によるキリスト教布教が禁止され、雍正帝の頃にはキリスト教布教が完全に禁止されます。また、国内の宗教でも白蓮教などについては反体制的な宗教として弾圧の対象とされました。(雍正帝がイエズス会も含めての禁令を出した背景の一つとして、皇帝即位前に争った弟の胤トウ(しめすへんに唐)をイエズス会士であったジョアン=モランが推したことや、康煕帝時代に急速に増大した信徒の数を警戒したことなどが指摘されています。(岡本さえ『世界史リブレット109 イエズス会と中国知識人』山川出版社、2008年、p.42

東アジアについては中国を書いておけば十分かとは思いますが、日本についても当初は受け入れていた南蛮人・紅毛人を、秀吉の時代には伴天連追放令、江戸幕府の頃にはいわゆる「鎖国」とキリスト教信仰の禁止が進められていきますから、対キリスト教・対ヨーロッパについて考えると、流れとしては似ていますね。

 

中国[明・清]では統一した宗教政策は無し(儒・仏・道の三教が共存)

・イエズス会宣教師の重用など、外来の宗教には寛容

理藩院を通した藩部の自治と信仰の自由

ex.) チベット仏教とダライ=ラマ、新疆におけるイスラーム信仰

事情によっては弾圧の対象とする宗教も

cf.) 白蓮教 / 典礼問題とキリスト教布教の禁止(康煕帝・雍正帝)

 

【4、3地域の特徴比較】

:本設問は「3つの地域の特徴を比較して」と要求していますので、上記3で絞り出したことをただ羅列するのではなく、できる限り比較する視点でまとめてみたいところです。その際にポイントになるのはやはり、政治権力が「宗教または宗派をどのように扱ったか」と同じく政治権力が「人々をどのように扱ったか」でしょう。この視点に基づいて各地域の特徴をピックアップしたのが以下の表になります。この表に基づいて、大枠をつくり、必要に応じて肉付けしていけば設問要求から大きく外れた解答にはならないと思います。

2009_東大_宗教政策比較 - コピー

【解答例】

カトリック支配が続いていた西ヨーロッパでは、教皇権の失墜と王権の伸長、そして宗教改革により各国の政治権力が支配地域の宗教を管理する体制が成立したが、ドイツでは三十年戦争後に領主が宗派を選び個人に信仰の自由のない領邦教会制が、イギリスではヘンリ8世の首長法に始まるイギリス国教会が成立するなど地域差があり、フランスではユグノーに個人単位の信仰の自由を認めたものの、絶対王政を展開したルイ14世のナントの王令廃止で弾圧に転じるなど時期による差もあった。西アジアではイスラーム王朝が異教徒に対しジズヤの支払いで信仰を認め、オスマン帝国ではミッレトにおける自治も認められた。対外的にも主に商業面で異教徒の出入りに寛容だったが、オスマン帝国のデウシルメなど一部では異教徒に対する強権支配も見られ、スンナ派王朝としてシーア派のサファヴィー朝との宗派対立も存在した。東アジアでは明・清を中心に儒・仏・道の三教が共存し、特に儒教的価値観は朝鮮や日本でも重視されたが、国家が特定の宗教を国教として強制はせず、イエズス会宣教師の重用など外来の宗教にも寛容だった。清では理藩院を通して藩部の自治と信仰の自由が認められ、チベット仏教とダライ=ラマの存在や新疆におけるイスラーム信仰などは保障されたが、白蓮教の弾圧や典礼問題を契機とする康煕帝・雍正帝によるカトリック布教の禁止など、反体制的とされた宗教は国家によって弾圧された。600字)

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